第17話「クラゲのように」
学校の休み時間、白川がボクの席に来た。
「玲、ちょっと付き合ってくれない?」
「え? え?」
急に告白?どういうことだ。どこかでしくじったか?
「テストも終わったし、気分転換に遊びに行きたいと思って」
「ああ、そういうことか」
「先日、玲が私を避けていたこと、仲直りはしたけど、まだ玲が遠いと感じてるの」
最近は、白川をただの危険物として見ることは少なくなった。
話が通じない殺人鬼になっているわけではない。
それでも、怖くないわけではない。
まだ無意識に距離を置いてしまうのは、認めるしかない。
元々、ちゃんと話して、彼女が病的になった理由を知り、問題を解決するのが目的だったはずだ。
なら、もう少し接触した方がいい。
「行きたいところはあるのか?」
「今週土曜日に、水族館で“はなまつり”があるの」
「水族館に桜でも咲いたのか?」
ボクの言葉に、白川がくすくす笑う。
「そんなわけないでしょう? ペンギンの“はなちゃん”の誕生日イベントなの」
「そういうのがあるのか」
ペンギンか。
可愛いし、いいよな。
水族館も小学生以来行っていないし、いいかもしれない。
「しばらく作れなかった思い出。これから二人で、いっぱい作ろうね」
*
土曜日になって水族館に行くと、思ったより人が多かった。
入口のチケット販売キオスクにも列ができている。
チケットを購入して、中へ移動する。
通路に入った瞬間、周囲は薄暗くなり、壁や床に水の波打つような光が揺れていた。
一気に海の中へ入った気分になる。
気合の入った演出だ。
通路を抜けると、熱帯魚エリアに出た。
少し明るくなった部屋の左右に大きな水槽があり、爪ほどしかない小さな魚たちが泳いでいる。
「玲、見て。可愛いね」
白川がボクの手を掴み、水槽の前へ連れていく。
鮮やかな色の小さな魚たちが群れをなして動く姿は、宝石が流れていくようでとても綺麗だった。
白川はそれを興味津々に眺めている。
「玲、写真撮って」
白川が水槽の前に立つ。
特にポーズは取らず、手を後ろに回して立っているだけだ。
なのに、その自然さがむしろ青春映画のポスターみたいで、妙に絵になっていた。
ボクはスマホを取り出して写真を撮る。
「写真はメッセンジャーでまとめて送るよ」
「ありがとう。今度は私が撮ってあげるね」
「いいよ。ボクは」
「せっかく来たんだから、撮らないともったいないでしょう」
白川は無理やり水槽の前にボクを立たせた。
白川のように自然には立てないので、手でV字を作り、無理やり笑顔を作る。
写真は本当に苦手だ。
白川は自分のスマホで写真を撮り、そのあと画面を眺めた。
「ちゃんと撮れたか? 変じゃない?」
「ううん。とっても可愛いよ」
お世辞は必要ない。
そう思いながら、次のエリアへ向かった。
次はクラゲエリアだった。
急に辺りが真っ暗になり、水槽の中の微かな光だけが浮かび上がる。
その光に照らされた半透明のクラゲは、まるで自分で発光しているように見えた。
ゆったりと蠢く姿は幻想的でありながら、深い海の奇怪さも感じさせる。
「ここはちょっと怖いね」
ボクの手を握っていた白川の手に、力が入る。
正直、ボクも怖い。
特に正面には、傘のような胴体だけで人の頭くらいあるクラゲがいて、毒々しい触手が何本も伸びていた。
海であれに絡まれるところを想像したら、ぞっとする。
「今度は一緒に写真撮ろう」
ボクは白川の隣に立った。
そして自撮りしようとしたが、二人が並ぶとクラゲが隠れてしまい、何の写真なのかわからない画面になった。
「玲は私の前に立って」
仕方ないな、と思いながら前に移動する。
白川よりボクの方が小さいから、そうすれば後ろのクラゲが見えるはずだ。
ボクが前に立つと、白川が後ろから抱きつくように密着してきた。
肩に、白川の柔らかい胸の感触が当たる。
「撮るぞ」
スマホのボタンを押し、写真を確認する。
暗いせいか、画面が少しぼやけていた。
「玲、だめよ。暗いところでは、ボタンを押してからちょっと待たないと」
光量が足りないせいなのか。
もう一度撮ることにした。
今回もボクが前で、白川が後ろから抱きつく。
今度はさらに深く抱き寄せていた。
さっきは手が肩に置かれていただけだったが、今回はボクのお腹のあたりに回っている。その姿勢のおかげで、白川の顔がボクの顔の隣に並び、後ろのクラゲもよく見えた。
だが、白川がクラゲみたいに触手でボクに絡みついているようにも感じて、少し怖い。
「ねえ、玲。もっと笑って」
白川が耳元で囁く。
いつの間にか表情が固くなっていたらしい。
息を少し吐いて口角を上げ、スマホのボタンを押した。
「今回はちゃんと撮れたし、次のエリアに行こう」
ボクはクラゲエリアの出口へ向かう。
白川は半歩後ろからついてきた。
次のエリアは大きなホールになっていた。
いくつかの水槽が展示されている。
そしてホールの奥には、右の大水槽へ行く通路と、左のペンギンエリアへ行く通路の分かれ道があった。
「ペンギンエリアに先に行くか」
白川が“はなまつり”に興味があるようだったので、ペンギンエリアを優先しようとした。
だが、その通路を見ると、人が多すぎて通れなかった。
「すごい人波だな」
ボクが驚いていると、白川がスマホを取り出した。
「あ、今、はなまつりのメインイベントの時間かも」
「じゃあ急いで参加しなきゃ」
「ううん、いいの。人が多すぎて見られなさそう」
白川は意外なほどあっさり諦めた。
すごく好きだから今日来たのかと思っていたのに、イベントの時間を逃しても驚くほど落ち着いている。
まるで、本当の目的は最初から別にあったみたいに。
「白川、見たいなら見た方がいいぞ。遠慮するな」
「大丈夫。遠慮してるわけじゃないから」
白川はそう言って、ボクに微笑む。
「あっちは無理だから、反対側の道で下りましょう」
ボクには見えていなかったが、大きな水槽の方にも道があるようだ。
行ってみると、下へ向かう暗い通路が続いていた。
暗すぎて使われていない道かと思ったが、壁側には小さな水槽が点々と並び、そこからわずかな光が漏れている。
人が通る道ではあるらしい。
通路を下りる途中、右手に“Aqua Scope”という看板と、小さな部屋があった。
中は本当に真っ暗で、何の部屋なのか見ただけではわからない。
「行ってみましょう」
ボクがその暗い部屋を見ていると、白川が手を掴んで中へ引っ張った。
入ってみると、頭より少し大きい覗き穴があった。
そこから、さっきより大きな魚たちが泳いでいるのが見える。
なるほど。
さっきのエリアで見えた巨大な水槽の、裏側にいるのか。
「どの魚を見ているの?」
一緒に写真を撮る時と同じように、白川が後ろからボクを抱きしめ、顔の位置を合わせてくる。
「あ、あの魚。タイがいたから」
指で方向を示す。
「タイ? どこに?」
白川が覗き穴に顔を近づける。
それに合わせて背中に胸が押しつけられ、お腹に回った白川の手に力が入った。
体が、なんだか変な感じがした。
「ここからはよく見えないから、広いところに行こう」
白川のハグを振り切って、部屋を出ようとした。
だが、白川の腕はボクを放さなかった。
ボクに絡みついたままの腕。
耳元に、白川の声が落ちてくる。
「待って、玲」
「……」
身動きが取れない。
白川の話を聞くことしかできなかった。
「どうして、また私から逃げるの?」
「……」
喉から言葉が出てこない。
さっきまでと一変した雰囲気に、蛇の前のネズミみたいに固まってしまう。
「私、今日一緒に来られて嬉しかった。でも、玲が私から離れようとするたび、どんどん不安になっていくの。私が嫌になってるんじゃないかって」
嫌われる。
死亡フラグ。
「最近ずっと、黒瀬さんの家に行ってたよね。私は連絡も来なくて寂しかった。もう、私は必要ない?」
「それは違う!」
「……前に玲が言ったよね。自分を気持ち悪いと思わないのであれば、キスして証明してほしいって。今度は、私に証明してくれない? キスで」
その要求を、ボクは拒絶できない。
ボクがわがままでキスしておいて、彼女はだめだと言えるはずがない。
理由なく拒絶すれば、ボクが彼女を嫌いになったことを証明してしまう。
どうすれば……。
「私、玲とずっと記憶に残る思い出を作りたいの。安心して。ここには誰もいないよ」
白川がボクの肩を掴み、振り向かせる。
誰も来ないということは、邪魔される心配がないという意味だろうか。
それとも、助けを呼んでも誰も来ないという意味だろうか。
ボクは固まったまま、目を閉じることしかできなかった。
白川の柔らかく熱い唇が、ボクの唇に重なる。
彼女が唇を離すのを待っていたが、その気配はない。
彼女は待っているのだ。
あの日、自分がボクにしたことを、今度はボクからしてほしいと。
キスをしているという事実と、それ以上を要求する彼女の圧力で、心臓が狂ったように脈を打つ。
足の筋肉が緊張しすぎて、倒れてしまいそうだ。
その時、誰かが来る足音が聞こえた。
白川がゆっくりと唇を離す。
一瞬、ボクの肩を掴んでいた手にさらに力がこもったが、すぐに下ろした。
「行こう。玲」
あの暗い部屋から出た。
無言のまま通路を通って、下の階へ降りる。
目の前には再び広い空間が広がり、異世界から帰ってきたような気分になった。
ボクは今の空気を散らして日常に戻るため、人が多く集まる明るい方へ向かった。
自然と、ペンギンエリアの近くへ行くことになる。
そこには人だかりができていて、ペンギンの着ぐるみマスコットがいた。
「白川、まだイベントやってるみたいだ。一緒に写真でも撮ろうか」
あの暗い部屋に入る前の空気に巻き戻すため、さっきまでと同じ行動を提案する。
白川は頷いた。
二人で着ぐるみの前に立ち、自撮りをしようとした瞬間、着ぐるみの中から声がした。
「玲ちゃん?」
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