第15話「君のすべてが大切」
「ちょっと待って!」
ボクを連れて行こうとする白川の手を、今度は黒瀬が掴んだ。
「返してもらうって、どういう意味?」
白川はボクを掴んでいた手を離し、黒瀬に向き直る。
「玲と私は、昔から約束していたの」
「何の約束?」
「一緒にいい大学に進学するって。それで、お互い頑張ってきたの」
「……」
「今、成績が落ちて、玲が自分で言ったことを守れなくなるのは、玲も望まないはずよ」
黒瀬の視線が一瞬ボクに向き、すぐ下へ落ちた。
「そこまで言わなくても……」
ボクがフォローしようとすると、白川がこちらを見つめた。
「玲は……私との約束を守らないの?」
黒い瞳がボクを射抜く。
月明かりすらない夜の海のように、果てしなく暗かった。
「そういうわけでは……」
「じゃあ、行きましょう」
白川は黒瀬の手を振り切り、再びボクの手を掴んだ。
悔しそうにうつむく黒瀬を、ボクは置いていくしかなかった。
その手には、空になったピンク色の弁当箱が握られていた。
さっきまであんなに誇らしそうだったそれが、急に小さく見えた。
*
「玲、校庭のベンチで食べましょう」
白川は、昼に黒瀬と弁当を食べたベンチを指定した。
露骨に黒瀬を意識している。
「さっきは言いすぎじゃないか」
白川に抗議する。
黒瀬とボクの恋愛が気に入らないのはわかる。
でも、だからといって黒瀬を傷つけていいわけじゃない。
「私も、黒瀬さんと玲に悪いことをしたと思ってるの」
「なら、なぜ!」
「二人が青春を楽しみたいのはわかるよ。でも、一時的な感情で将来を捨てちゃだめ」
「……」
正論ではある。
でも、黒瀬を傷つけた悔しさは消えない。
「本当にごめんなさい、玲」
白川はボクの顎を掴み、自分の方へ向けた。
視線が合う。
「でも、あなたの未来のためなの。わかってくれる?」
まるで親のような言い方だった。
日が沈もうとしている。
青かった空が、どんどんオレンジ色に染まっていく。
“時間が過ぎる”ということを、一番感じやすい時間だ。
黒瀬からは、温かな安らぎを感じていた。
でも、所詮は実らない偽装恋愛。
終わるしかない縁だ。
それなのに、黒瀬の悔しそうな顔を見て、どうしてこんなに怒っているのだろう。
「玲は、私のこと嫌い?」
「今、怒ってはいるけど、嫌いとは言ってない」
生き残るための否定ではない。
白川は本当に、ずっと一緒にいたい友達だ。
今は気の迷いで危険な考えを持っているだけ。
それを直して、元の関係に戻りたい。
「そう言ってくれると嬉しいけど……。私、感じていたの。玲がただ新しい恋愛に夢中なんじゃなくて、私を避けていたことも」
「……」
バレていたのか。
なら、ゲームオーバーだ。
白川の秘密を知って距離を取っていたことで、「玲が私を嫌いになった」と判定された。
“心中”の条件を達成している。
握っている拳に力が入った。
「この前、玲からキスしてくれた時、本当に嬉しかったの」
「……」
あの夜のキスを思い出す。
猛獣が獲物の首を狙うように下唇を噛み、柔らかくて温かいものが口の中を侵食してくる感覚。
一生忘れられそうにない。
「嬉しくて、興奮しちゃって……ちょっと調子に乗っちゃったかもって、後で後悔した」
「……」
「許してくれる?」
「何を?」
白川を見る。
死の宣告を待ちながら黙って聞いていたボクは、話の流れがおかしいことに気づいた。
「玲の許可なく……その……大人のキスをしたこと。驚かせてしまったのかなって」
目の前の白川は、恥ずかしがっていた。
何と返せばいいのだろう。
この展開は予想外だった。
「それは……驚いた」
「本当にごめんね。私が玲の初めての大人のキスを奪ってしまったのかな」
いつの間にか夕暮れを過ぎ、夜が訪れようとしている。
薄暗い中、白川は申し訳なさそうに眉を寄せていた。
けれど、口角だけはうっすら上がっている。
まるで、人をたぶらかす妖狐のようだった。
「二度と急にそんなことはしないで。それと、黒瀬にも謝って」
「何に対して謝ればいいの?」
白川の表情が、ほんの少し硬くなった。
声も重い。
「……さっきのは、さすがに言いすぎだ。二人で話したいなら、普通に呼べばいいじゃないか」
ボクの返答に、白川の表情が和らぐ。
冷気を帯びていた空気が、普通のものへ戻った。
理由はわからないが、助かったらしい。
「わかった。黒瀬さんには謝る。そして、玲と話したい時は普通に呼ぶ」
機械のように、ボクの言葉を復唱する。
契約書を更新するみたいに、お互いの言葉を確認する。
ボクの言い間違いはないはずだ。
白川が黒瀬に謝るという意味なら、問題ない。
「仲直りもしたし、お弁当、早く食べよう」
白川がボクに弁当を渡した。
空はすっかり暗くなり、校内の街灯が光り始めている。
気が抜けてぼうっとしているボクの口に、魚の天ぷらが入ってきた。
白川がボクに食べさせてくれていた。
「魚は頭に良いんだって。二人でいい点数が取れたらいいね」
白川は本当にボクを思って、弁当を準備し、勉強しようと誘ったのだと思う。
すべてはボクのために。
……その気持ちに、どう答えればいいのかわからない。
「白川は……ボクをよく見てるね」
「それはもちろん。子供の頃から一緒だからね」
安心して私に全部任せて。
そう言うように、白川はボクの手を握った。
白川は、もはや家族に近い。
ボクは家族のように思っているのに、白川はどうしてボクを恋の対象として見るようになったのだろう。
ただの信頼なら、この手を握り返せるのに。
「お弁当も食べ終わったし、図書室に行こうか」
白川が弁当箱を片づけながら言った。
二人で図書室へ向かう。
ボクが一つのテーブルを選び、椅子に座ると、白川は隣の椅子を引き寄せ、ボクのすぐ側に置いてから座った。
腕がぶつかるほど近い。
「なんか近くないか?」
「明日は同じ科目のテストでしょう? ちょっと相談しながら勉強したくて」
白川は耳元で囁く。
「普通に話さないか? 耳がくすぐったいんだ」
「図書室では静かにしないと。話すなら、小声で話すべきだよ。玲もそうして」
「わかったよ。これでいいか?」
ボクも白川の耳元で囁く。
すると、白川は少し身震いした。
お前もくすぐったいんじゃないか。
「玲は、明日の科目の中で何が一番心配?」
「歴史かな。事件の年度はマジで覚えられない」
「じゃあ、私が問題を出してあげるね」
やっぱり難しかったが、白川とクイズ形式でやると案外面白かった。
二人で勉強するのは楽しい。
雨の日の勉強会もそうだったが、一緒に勉強していると昔に戻ったようで安心する。
しばらく小声でクイズを出し合っていると、白川の顔がかなり赤くなっていることに気づいた。
図書室の中が暑いのか。
「白川、顔が赤いぞ。疲れてるなら、ちょっと休むか?」
「そ、そうなの? 自分では気づかなかった。せっかくだし、トイレ行ってくるね」
「おう。ボクは図書室の入口で待つよ」
白川は早足でトイレへ向かった。
あいつ、我慢していたのか。
図書室の入口で待つ。
深呼吸する。
屋内だが、中よりは空気がきれいだった。
胸の中が少し晴れる。
白川が戻るのに時間がかかっていたので、ボクはスマホを開いた。
黒瀬からの連絡はない。
「明日は、ボクもちゃんと謝らないとな」
放課後のあの時、ボクもちゃんと黒瀬を庇うべきだった。
白川の圧に押されて、その勇気が出なかった。
昔の白川は、人見知りで大人しかったのにな……。
「ごめん。待たせてしまって」
しばらく考え込んでいると、白川が戻ってきた。
「そろそろ帰るか。白川も疲れただろう」
「う、うん」
白川は少し戸惑ってから頷いた。
月明かりが照らす帰り道を、二人で歩く。
ボクたちは家の前で止まった。ボクと白川の家はすぐ隣だから、お互いの玄関が見えるところで別れる。
「明日のテスト、頑張ってね!」
白川が別れ際に手を振りながら応援してくれた。
「白川もな!」
家の中に入る。
飲んでいた缶は、白川が捨てると言って持っていったので、そのまま部屋に向かった。
まだ時間があるので、もう少し勉強する。
十二時ごろ。
勉強が終わって寝ようとした時、メッセージが来た。
スマホを見ると、黒瀬からだった。
『玲ちゃん、テスト期間終わったら、放課後に時間ある?』
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