第13話「夜に落ちる冷たい雫」
『玲、傘持ってる? 私、傘忘れてきちゃった』
『玲、今どこにいるの? まだ学校にいる?』
『玲、もう帰った?』
『もし家に着いたなら、傘持ってきてくれる? 変なお願いしてごめん』
『学校で待ってる』
黒瀬が帰った後、スマホを開くと、メッセージ通知が黒い泡のように噴き出してきた。
すべて白川からのものだった。
学校が終わってから、正確に三十分ごとに届いている。
ボクは急いで、もう一本の傘を持って学校へ向かった。
『白川、まだ学校にいる? 今どこ?』
移動しながらメッセージを送る。
『図書室にいるよ』
うちの学校は進学組のために、遅い時間まで図書室を開放している。
弱い蛍光灯に照らされた不気味な廊下を通り、ボクはそちらへ向かった。
図書室のドアを開く。
「玲、来てくれたんだ。来てくれなかったら、どうしようかと思ってたよ」
白川が図書室のどこにいるか探す必要はなかった。
ドアを開けた瞬間、そこに立っていたからだ。
彼女は幸せそうに笑っていた。
まるで、メッセージを送った直後にボクが来たかのように。
「遅くなってごめん」
「ううん。大丈夫。テスト勉強してたから」
その時、白川のスマホが震えた。
「あ、お母さん? うん。勉強は今終わったところ。傘? 大丈夫。今戻るね」
傘は、家族に頼めば持ってきてもらえたはずだ。
なのに、彼女は今までずっと待っていた。
本当に勉強しながら待っていたのだろうか。
それとも、さっきみたいにドアを見つめたまま、ずっと立っていたのだろうか。
「待たせてごめんね。行こう、玲」
後ろを向く。
本来なら暗闇であるはずの場所を、弱々しい蛍光灯でごまかしている長い廊下が見えた。
人の気配はなく、無機質で冷たい空気だけが満ちている。
怒らせてしまったであろう白川を背後に置いて、その廊下を歩く勇気が出なかった。
「どうしたの? 玲。ドアの前に立ってると出られないよ」
後ろから白川が急かす。
「ボク、走って来ちゃってさ。ちょっと休みたいんだけど、図書室で休んでも大丈夫かな」
図書室には、まだ何人か勉強している生徒が見えた。
人がいるなら、極端な行動には出ないはずだ。
「急がなくても良かったのに……。わかった。ちょうど、玲のこと心配だったし」
「心配?」
「もうすぐテスト期間でしょう? なのに、全然勉強しないから」
「全然してないわけではないが……」
「いつもなら、一緒に図書室で勉強してたでしょう? 二人で頑張ってたでしょう?」
「ああ、そうだな」
子どもの頃から、テスト期間が近づくと一緒に勉強していた。
小学生の時はボクの部屋で。
中学生の時は教室で。
高校一年生になってからは図書室で。
白川はボクと同じ大学に行きたいと言っていた。
一緒にいい大学に行こうと約束していた。
「でも、今は教科書がないな。どうしようか」
「教科書とノートは私のを一緒に見よう。待ってる間に、玲の勉強の参考になりそうな本の場所を探しておいたの。持ってくるね」
白川は本棚の間に消え、しばらくして戻ってきた。
空いているテーブルに数冊の本を置く。
参考書が数冊。
それ以外の本が一冊。
「この本は?」
「あ、これは玲が前に興味あるって言ってた本。あったから一緒に持ってきた」
確かに、書店で買おうか迷ったものの、お小遣いの残りが足りなくて諦めた本だった。
でも、白川に話したことあったけ。
「玲、勉強はどこまで進んでる?」
「家にある問題集は半分くらい解いた。今は持ってないから、参考書を読みながら復習しようと思う」
「休んでた間の授業でわからないところがあったら聞いてね」
二人で勉強を始める。
シャーペンが紙をこする音だけが残った。
ボクは参考書を読む。
時間が過ぎるにつれて、心が落ち着いていくのを感じた。
黒瀬と先に帰ったことについて、白川は何も言わなかった。
今の表情は、どちらかと言えば嬉しそうだった。
楽しそう、と言ってもいいかもしれない。
子どもの頃から、何も言わずに一緒に何かをするのが好きだった。
ボクも白川も内向的で、言葉を探して会話を続けるのは疲れる。
だから、わざわざ話さない。
話さなくても、楽しい時間は過ごせる。
今は白川は成績優秀と知られているが、もともと勉強が好きなわけではなかった。
勉強より遊ぶ方が好きで、小学校までは成績もずっと中くらいだった。
それが変わったのは、中学一年の時の勉強会だった。
勉強会の途中、白川がそろそろ遊ぼうと言った。
ボクは進学校に行きたいから、もっと勉強しないといけないと言った。
白川は高校受験や進学校についてあまり知らなかったようで、良い高校に行くには受験が必要だということを、その時初めて知ったらしかった。
「玲と離れたくない。私もその学校に行く」
その時から、白川はすごく頑張った。
遊ぶ時間が減った。
勉強に興味のない友だちとの交流時間も減った。
ボクの言葉のせいで一人になったみたいで、少し可哀想だった。
だから、寂しくないように、その友達の代わりみたいに一緒に遊んだ。
彼女が努力の末に全校成績十位圏内に入った時のことを思い出す。
ボクはそれを祝ったが、彼女はなぜか怖がっていた。
理由を聞くと、人目を集めるのが嫌なんだと言っていた。
普通でいたい。
それが彼女の望みだった。
理解できなかったボクは、なら普通の成績を取ればいいじゃないかと言った。
彼女は数秒の沈黙の後、泣き出した。
どうすればいいのかわからなかったボクは、しばらく彼女と距離を取った。
今思えば、本当に申し訳ないことをしたと後悔している。
時間が過ぎ、またテスト期間が近づいた頃。
ボクは彼女が普通に戻るはずだと思って、勉強会に誘わなかった。
放課後、一人で教室に残って勉強していると、白川が隣に座った。
何も言わずに、ただ一緒に勉強した。
そろそろ帰るかと思って席を立つと、白川も帰る支度を始めた。
「玲、勉強は順調?」
数ヶ月ぶりに声をかけられ、「ああ」と間抜けな声しか出なかった。
その後、何も言わずに同じ道を歩き、家に帰った。
その日から、また自然に話すようになった。
ある日、ボクは帰り道で白川に謝った。
距離を取っていたことを。
白川は、それを許してくれた。
「玲が戻ってくるのを信じてたから。大丈夫」
また彼女を傷つけて、そのことをずっと後悔するような真似をするのが怖い。
黒いノートの件も含めて、この先どうなるか分からないのに、後戻りできない行動をするのは避けたい。
いつの間にか、図書室の閉館時間になっていた。
出る際に、白川が持ってきた参考書以外の一冊を借りることにした。
タブレットに学生番号と本の番号を入力する。
ドアを開けると、再び薄暗い白光に照らされた廊下が見えた。
だが、さっきほどは怖くない。
ボクはその空間に踏み出す。
先に待っていた白川は、ボクが出てきたのを確認すると、廊下を歩き始めた。
廊下に出てから、白川が口を開く。
図書室の中で話し始めなかった理由はわかる。
図書室では静かに。
白川は、そういうルールをきちんと守る。
「今日はありがとうね、玲」
「感謝されることは特になかったと思うけど……来るのも遅かったし、休みたいってわがままも言ったし」
「傘を持ってきてくれたこと。一緒に時間を過ごしてくれたこと。私が持ってきた本も、ちゃんと借りてくれたこと。全部。私はありがたいと思ってるよ」
「やはり感謝されることはないと思うが……むしろボクが感謝するべきことだらけじゃないか」
「ううん。私がただ感謝したいだけ。玲はそのままで大丈夫」
白川は少し目を細めた。
優しく、満ち足りた表情だった。
「そういえば、本の貸し出し期間は一週間だったよね?」
「ああ、そうだったと思う」
「返却日までにちゃんと返さないとだめよ? ルールはしっかり守ってよね。その本をずっと待っている人もいるかもしれないから」
「わかっている」
返却日を過ぎたら、図書委員か先生に何か言われるだろうしな。
「貸した本は、ちゃんと返す。そうすれば、何も問題ない」
「その通りだ」
「でも、戻って来られず、紛失扱いになる本もある。可哀想な迷子」
話の流れに少し違和感を覚えたが、雑談を続ける。
「まあ、うちの学校は貸し出し管理が雑だよな。ちゃんと管理しないと」
「そう!」
少し前を歩いていた白川が振り向く。
ボクの意見に同意するという意味の笑み。
黒い瞳が、ボクの目を見つめる。
「もっとちゃんと管理しないとね。迷子の本がないように」
ボクは、腕に抱えた本を落とさないように、無意識に強く抱きしめていた。
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