第5章 「God’s in His heaven, all’s right with the world.」
燃え盛るその場所で、老人警官が放った一発の弾丸が、怪物のいる炎の渦の中へと吸い込まれていった。
その一発を先頭に、部下たちの何百、何千という弾丸が次々と続いた。
全ての警官が引き金を引き続けた。
その弾丸が怪物を殺すことはおろか、傷一つ付けられないことを理解していながらも、彼らは撃ち続けた。
ただ一つ確かなのは――怪物さえ住民たちのいる場所へ向かわなければ、この弾丸の雨は決して無駄にはならない、ということだった。
「……おい、若いの。」
突然、老人警官が、ずっと身を縮めていた青年の肩にそっと手を置いた。
「ん?」
青年はすぐに顔を上げ、老人警官の方を向いた。
「ここから離れろ……。大丈夫だ、俺たちが必ずお前を守る。」
老人警官は大きく笑みを浮かべながらそう告げた。
青年はその瞳をまっすぐ見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
そして目前に広がるのは、炎と、赤熱した金属の残骸だけだった。
彼は燃え盛る地獄の光景を見つめ、拳を握りしめ、奥歯を強く噛み締めた。
その表情の苦さに気づいた老人警官は、両手で青年の頭を包むように掴んだ。
「考えるな! それはお前の役目じゃない!
今のお前の役目は――生きることだ! 行け! 逃げろ!
あとは俺たちに任せろ!」
老人警官は青年の目の前で怒鳴りつけた。
青年は老人警官の瞳を、深く、深く見つめ返した。
「……この目は――」
そう青年は胸の内で呟く。
そして彼は、何も言わず、そのまま全力で走り出した。
……一度たりとも後ろを振り返らずに。
わかっていた。気づいてもいた。
あの警官の行動が――
「……無駄だ。」
青年はそう小さく呟きながら、炎の地獄から遠ざかっていった。
臆病な青年が逃げ出したのを確認すると、若い警官と老人警官は再び銃を構え、燃え盛る炎の奥に潜むモンスターへと銃撃を続けた。
そしてしばらくして、絶え間ない銃声に苛立ったのか、モンスターがついに咆哮し、反撃を始めた。
「バキィィィン!!」
炎の塊の中から、兵士の胴体の一部が猛スピードで飛び出し、警官が身を隠していたパトカーに叩きつけられた。
「来るぞ! モンスターが反撃してきた!」
つい先ほど車を襲われた警官が叫んだ。
「ぐっ……い、痛い……痛い……助けて……まだ死にたくない……」
車に叩きつけられた兵士が苦悶の声を漏らす。
兵士の体はもはや原形を留めておらず、下半身のほとんどが消え失せていた。
頭蓋骨は砕け、左目は眼窩から飛び出していた。
「痛い! 痛い! 痛いよ!
誰か助けてくれ!
神様……俺が何をしたっていうんだ……!
あああああ!! 痛い!! 痛いんだよォォォ!!!」
兵士は地獄の叫びを上げ続けた。
その姿を見た警官たちは、息を呑み、手が震え、そして胃が捻じれるような吐き気に襲われる。
こんな地獄は初めてだった。
こんな恐怖も初めてだった。
「助けるべきなのか……?」
「でも、どうやって助ける……?」
「それとも……無視してもいいのか……?」
「――だが、見捨てるなんて……そんな非人道的なことが許されるのか!」
「バキィィン!」
再び兵士の死体がパトカーに叩きつけられ、警官たちは我に返った。
今度の死体は、すでに頭部と両脚を失っていた。
「バキィン!」
巨人が投げ飛ばした今度の死体は、両腕も両脚もない肉塊で、警官の一人に直撃し、そのまま即死させた。
「伏せろ!」
老警官が仲間たちに叫ぶ。
その声が響いた直後――
数十もの兵士の肉片が、大砲の砲撃のような勢いで次々と警官たちへ降り注いだ。
その衝撃の合間に、かすかに聞こえる苦痛の叫びとうめき声が混じっていた。
「アアァァァァァ!! たすけてぇぇ!!」
「イタァァイッ!! みえない! みえないよ!!」
「ごめ……ごめ……ごめんなさい……!
かみさま……ゆるして……!!」
「かみさまっ……たすけてぇ!!」
その声を聞いた警官たちの胸に、激しい恐怖がせり上がる。
全員が黙り込み、手のひらは震えていた。
耳をふさぐ者、身体を抱きしめる者、そしてただ必死に祈りの言葉を呟き続ける者――。
血飛沫と肉片が叩きつけられる音が、夕暮れのその場所に響き続けた。
恐怖に縛られた彼らの脳裏に、同じ言葉が浮かび始める。
「ここが……地獄なのか?」
「これは……私たちへの罰なのか?」
「かみさま、どうか……どうかこれを止めてください!」
「かみさま! 助けてください!!」
「しにたくない……! あんなふうに死にたくない!
かみさま……おねがいです……ゆるしてください!!」
そしてついに、その極限の恐怖の中で、ひとりが叫び出した。
「あっ! ああああっ!! もういやだ!! オレは逃げる!
オレは……オレは死ぬために警官になったんじゃない!!」
その警官は悲鳴を上げながら背を向け、戦場から逃げ去っていった。
逃げ出した仲間を見て、数人の警官たちは互いに顔を見合わせ、考え始めた。
「……俺たちもここから逃げていいのか?」
そう思ったその数秒後、あの凄まじい体当たりの嵐はようやく止んだ。
先ほどまで燃え盛っていた炎も縮まり、その煙の奥から、あの巨大なモンスターが再び威容を現しながら悠然と歩み出てきた。
その口の両端には真っ赤な血がべっとりと付き、なおも滴り落ちている。
そして左手と右手には、人間の死体──すでに上半身と下半身しか残っていない無惨な姿──がぶら下がっていた。
そのあまりにも恐ろしく、魂まで凍り付かせる光景を前に、先ほどまでかろうじて踏みとどまっていた警官たちの本能は限界を迎え、悲鳴とともに逃走を叫び始めた。
「こんなもん知るかよ! 俺はこんなところで犬死にするために給料もらってねぇんだ!」
そう怒鳴りながら、一人の警官が持ち場を捨てて走り去る。
そして、その逃げた一人を皮切りに、他の数名も連鎖するように次々と逃げ出していった。
その醜態を目にした若い警官は、激怒して叫んだ。
「このクソ野郎ども! なんで逃げるんだよ!? ふざけんな! 武器を持ってる俺たちが逃げてどうする! 丸腰の市民を誰が守るっていうんだよ!」
怒りに任せ、若い警官は全弾を叩き込むように連射した。
銃身は熱を帯び、赤く染まり始めている。
だが彼の激怒の射撃は無意味ではなかった。
放たれた弾丸はすべて正確にモンスターの両目に命中していたのだ。
「おい、バカ! 怒ってるのは分かるが、目ばっか狙うな! 逆にこっちを狙ってくるかもしれんだろうが!」
隣で撃ち続けていた老警官が怒鳴る。
「うるせぇ! この距離ならまだ――」
若い警官が言い終える前に、突然、炎に包まれていた軍用車両が二人へ向かって飛来した。
「隊長! 危ない! すぐにそこから離れてください!!」
遠くから一人の警官が叫んだ。
「なっ!? いつからあんな巨大な物まで投げられるようになったんだ……!?」
若い警官は、宙を飛ぶ軍用車両を見つめながら呆然とそう思った。
「バカ野郎! さっさと逃げろ!!」
老警官が怒鳴る。
その直後、老警官は素早く若い警官の襟をつかみ、力いっぱい横へと放り投げた。
「ドサッ!!」
若い警官は、さっきまで身を隠していた場所から大きく弾き飛ばされた。
「っつぅ……! いってぇなぁ!」
若い警官はアスファルトに叩きつけられた痛みに顔をしかめた。
頭を押さえながら痛みに耐えていると、ふと何かに気づいて老警官を見た。
老警官は立ったまま、若い警官に向けて小さく笑いかける。
「はは……どうだ……これで……さっきの借りは……返したぞ……」
そう言って、息を荒げながら微笑む。
「ドゴォォン!!」
巨大な軍用車両が、そのまま老警官とパトカーを容赦なく押し潰した。
「……隊長……」
ありがとう




