91 前進
初バイトの日がきた。
私はバイト先まで、徒歩15分の道のりを、緊張しながら歩いていた。
セミが元気よく鳴いている、並木道を歩きながら、今朝、薫くんが言ってくれた言葉を思い出していた。
“肩の力を抜いて、落ち着いてやればきっとできるから”
大丈夫。
薫くんがああ言っていたから、ちゃんとできる。もし失敗しちゃっても、ちゃんと謝って、また同じ失敗をしないように気をつければ大丈夫。
そう自分に言い聞かせていた。
スーパーに着き、事務所のようなところで挨拶なんかを色々と済ませると、エプロンを手渡され、それを身につけた。
店長さんは40代くらいの男性だった。
それから店長さんに、こう言われた。
「藤崎さんは、彼に仕事を教えてもらって?」
店長さんの隣には、私と同じエプロンを着た、20代の男性がいた。
「それじゃあ東くん。よろしくね」
「はーい」
なにか……言わなきゃ……。
「今日はよろしくお願いします」
私はそう言いながら、頭を下げた。
「よろしくー。それじゃ、早速ついてきて」
東さんのあとをついていき、言われるがままに作業を進めた。
今は開店の約1時間前。
東さんは終始気怠そうに、私に仕事を教えながら、手を動かしていた。
「藤崎さんはさー、何歳?」
「18歳です」
「ふーん。学生?」
なんでみんな、年齢とか、学生か社会人かを聞いてくるんだろう。
「いえ……」
「……へー。俺は今、大学休学中」
聞いてもいないのに、東さんはそう教えてくれた。
「あー、ちょっと待って。これはこうして……」
東さんは私が並べたものを直していた。
「こんな感じにして?」
「はい。すみません」
「……なんで謝ってんの?」
「え……?」
「今日が初めてなんだから、わからなくて当然でしょ?俺が言い忘れてただけなんだから」
……何もかもが初めてだし、緊張していて頭がうまく回らない。
「そういうの、やめた方がいいよ」
「……」
「悪くもないのに謝ったり」
「……」
「おどおどしてんの見てるとイラつく」
私……おどおどしてるように見えるんだ。
ただ緊張してるだけなのに。
「あー……悪い。言葉間違えた。友達にいるんだよね。すぐに自分を責めちゃうようなヤツ。男のくせに。そいつと重なっちゃっただけ。藤崎さんはただ緊張してるだけだよね?」
「……はい」
「ごめんごめん。気にしなくていいから」
本当に……色んな人がいるんだな。
一瞬、胸がチクリとしたけど、東さんはすぐにそう言ってくれたから、そのあとは平気だった。
開店してからも、東さんの指示で商品の補充をし、後半はひとりで仕事をしていた。たまに東さんが様子を見に来てくれ、新しい指示をくれた。
お客さんから商品の場所を聞かれることもあり、そんな時は近くにいたスタッフに聞きに行った。
心配していた5時間は、あっという間に過ぎていた。
「今日はありがとう。すごく助かったよ」
店長さんがそう言ってくれた。
「いえ。お役に立てたならいいのですが……」
「ははっ。藤崎さんて、なんだか不思議な子だね」
不思議?
「今まで、そんなことを言われたことなかったから。きっと育ちがいいんだね。またタイミングが合ったらよろしくね」
「はい。ぜひ、よろしくお願いします」
エプロンを店長さんに返却すると、さっき商品の場所を教えてもらったパートさんが目に入った。50代くらいの女性だ。
「あ、あの」
「はい?」
「先ほどは、ありがとうございました」
「いいのよ別に。初日なんだから、分からなくて当然よ」
よかった。優しそうな人だ。
「助かりました」
「いえいえ」
私は荷物をまとめると、裏口から出ようとした。
「お疲れさん」
声のする方に振り向くと、東さんがいた。
「お疲れさまです。今日はありがとうございました」
私はそう言うと、頭を下げた。
「また来なよ」
「え?」
「うちのスーパー、今人手が足りてないから、また求人が出てたら来なよ。ま、タイミングが合えばだけど」
「……はい」
「んじゃ」
東さん……なんだかよく分からない人だ。
それにしても、店長さんからも、東さんからもそう言われて嬉しかった。
初バイト……成功ってことでいいよね?
大きな失敗はしていないと思う。また募集を見かけたら、ここで働きたいな。
家に着くと、どっと疲れが押し寄せた。
やっぱり、初めてのことをすると疲れるな。料理教室の時もそうだった。
少しだけ、お昼寝をしよう……。
目が覚めても、部屋の中はまだ明るいままだった。だけど時間を確認したら、もう16時になっていた。
夏って日が長いから、わかりづらい。私は急いで冷蔵庫の中を確認した。それから次に冷凍庫を確認し安心した。
寝起きだったから、どんな食材が今家にあるのか、わかっていなかった。
これなら大丈夫だ。夜ごはんは作れる。
私は食材を取り出すと料理をし始めた。ある程度準備が終わると、今度はお風呂の支度をした。
それも終わるとまたソファに座り、ゆっくりと過ごしていた。
薫くんが帰ってくると、ごはんを食べながら今日の報告をした。
「よく頑張ったね」
薫くんはそう言ってくれた。
寝る時間になり、二人でベッドに横になると、薫くんは私を抱き寄せ、唇を重ねた。
これはもう、ほとんど日課になっていた。
今日は……
いつもよりも長かった。
もっと……近づきたい……。
私は気がついたら、薫くんの胸元の服を、手の中に握り込んでいた。
すると薫くんは、唇を離した瞬間、息を吸い込むと、私の頭を抱き寄せて、もう一段階進んだキスをしてきた。
私はそれに驚いて、薫くんの胸を押し返すようにした。
私の呼吸は早くなっていた。
胸の鼓動も早くなっていた。
「……嫌?」
首を横に振り、嫌ではないことを伝えた。
あ……今は真っ暗なんだから、ちゃんと言葉にしないと……。
「嫌……じゃない。ただ……」
「うん。ただ?」
「どうすればいいのかわからない」
「……僕と、同じようにして?」
「同じように……?」
「うん。僕のマネをして?」
薫くんのマネ……
「呼吸は?いつ呼吸すればいいの?」
「ははっ。普通にしてればいいよ」
笑われてしまった。
そんなにおかしいこと、言ったのかな……。
薫くんはもう一度、ちゅっと軽いキスをすると、私の背中を撫でた。
「今日はもう寝ようか」
……。
いやだ……
もっと……触れ合いたい……。
さっきの続きがしたい。
私は薫くんの唇に、自分の唇を重ねた。
自分からキスをした。
すると薫くんは、またさっきのように私の頭を抱き寄せ、深いキスをした。
私は言われた通り、薫くんのマネをした。
呼吸が早くなる。
好きの気持ちが大きくなる。
もっと……
薫くんに近づきたくなる……。
息苦しさを感じ、私は唇を離した。
やっぱり上手に呼吸ができなかった。
「大丈夫?」
心配そうな、薫くんの声が耳に届いた。
私は薫くんに抱きついた。
「……好き……」
真っ暗な部屋の中に、絞り出すようにそう言った私の声が、静かに響いていた。




