90 ぽかぽか
いつの間にか梅雨が明け、もうすぐ8月になろうとしていた。
料理教室も順調に通え、苦手なホンダさんと同じグループになることもあった。そんな時は、また色々な質問をされた。
だけどそういう時は、薫くんやタナカさんが言っていたように、答えられるものには答え、そうでないものに関しては、“なんでそんなことを知りたいんですか?”と、逆に質問をした。
“なんとなく”と言われれば、笑って誤魔化し、“あなたのことが心配だから”と言われれば、“ご心配ありがとうございます”とだけ言い、話を終わらせた。
このかわし方は、以前タナカさんと同じグループになった時に教えてもらった。
少しだけ、成長できたように感じていた。
ほんの少しだけ、自信がついたように思えた。
私はまだ“ひよこ”。
前に薫くんが言ってくれたこの言葉を、私は励みにしていた。
少しずつ、慣れていけばいい。
少しずつ、進んでいけばいい。
部屋には夏の日差しがさんさんと降り注ぎ、私に活力を与えてくれた。雨の日も好きになったけど、やっぱり晴れている日は、私の心も軽くしてくれる。
冷房の効いた部屋で、私はまた、スキマバイトの求人をスマホで見ていた。
これも力仕事。これは経験者のみ。これは……少し遠いな。
そのままスクロールをしていると、良さそうな求人を見つけた。薫くんが帰ってきたら、相談してみよう。
薫くんとは、あれから毎日キスをしている。少しずつ、そうすることに慣れてきた。キスと言っても軽いもの……啄むような感じ……。
そんなキスが、1ヶ月以上続いていた。
次第に私は、それだけでは物足りなく感じるようになっていた。
そう思うのって、おかしいのかな?はしたないことなのかな?
だけど実際にそれ以上進んだとして、私はきっと、恥ずかしさでいっぱいになり、焦ってしまうと思う。
でも、唇を重ねるたびに、好きの気持ちがどんどんと大きくなっていた。
もっと……薫くんに近づきたい。
もっと薫くんと触れ合いたい。
……。
私……何考えてるんだろ……。
ずっと家にいるからだ。だからこんなことを考えちゃうんだ。
そんなことを考えてしまう自分のことを、恥ずかしく思った。
薫くんが帰ってきて、ごはんを食べ終わると、私は早速スキマバイトのことを、スマホの画面を見せながら話した。
「これ。来週なんだけどね、ここから歩いて15分のところだし、時間も5時間なの。どう思う?」
「スーパーの品出しか。やってみたいの?」
「うん。これならアルバイトが初めての私でも、そんなにハードルは高くないかなって思って。ここに、“未経験やブランクのある方でもOK”って書いてあるから……どうかな?」
薫くんは画面をスクロールし、内容を確認しているようだった。
「いいんじゃない?家からも近いし、これなら僕も安心」
「本当?私にできると思う?」
「“できる、できない”じゃない。挑戦することに意味があるんだよ?また葵ちゃんは一歩踏み出すんだから」
わかってる……だけど、薫くんに“できる”って言って欲しい……。
薫くんから言われる言葉は、私にとっては、まるで魔法のようなものだから。
「どうしたの?」
私はさっき思ったことを、そのまま言った。
「ははっ。そっか。魔法か。大丈夫。葵ちゃんは頑張り屋さんだから、落ち着いてやればきっとできるよ」
やっぱり薫くんからそう言われると、そんなような気がしてくる。
「ただね?もし失敗しちゃっても、自分を責めたらだめだよ?もちろん反省することは必要なことなんだけど、責めるのとは違うからね?」
「反省……」
「そう。反省して、また同じ失敗を繰り返さないように気をつければいいだけ。失敗をしたら落ち込むかもしれないけど、“私にはやっぱり無理”だなんて思わないこと」
「はい」
「大丈夫だから、頑張っておいで?」
「うん。やってみる。いつもありがとう」
薫くんに背中を押されて、不安な気持ちが軽くなった。
薫くんの誕生日の日から、私は小さいタッパーにおかずを詰めた、小さいお弁当を作り続けていた。もちろん、おにぎりも。
“無理しなくていいからね”と、薫くんは言いながらも、毎回“美味しかったよ”と、嬉しそうに言ってくれるから、私は毎日作っていた。
私にとっては苦でもなければ、無理して作っているわけではない。私がそうしたかった。
「はい。お弁当」
「いつもありがとう」
薫くんは嬉しそうにしながら、受け取ってくれた。私はその顔が大好きだった。
「どうしたの?なんだか嬉しそうにしてるよ?」
「……薫くんが、嬉しそうにしてるから」
「え?僕そんな感じだった?」
「うん」
すると、今度はニコニコとしていた。
「いつもね、蓋を開ける瞬間を楽しみにしてるんだ。今日は何が入ってるのかなって。今も今日のおかずは何だろうって思ってたから、自然とそんな顔になってたのかも」
嬉しいな。
薫くんと一緒にいると、毎日が穏やかだ。
「それで?なんで葵ちゃんまで、嬉しそうにしてるの?」
「だから薫くんが嬉しそうにしてたから」
「ふふっ。それだけで嬉しくなっちゃうの?」
なっちゃうよ。
私は照れてしまった。
そんな私を、薫くんがそっと抱きしめてくれた。
「今日はたぶん、いつも通りに帰れると思う」
「うん……待ってる」
「うん。待ってて?急いで帰るから」
本当に毎日、心がぽかぽかだ。




