89 暴れる心臓
なんだか……今日で一気に、薫くんに近づけたような気がした。
今は二人でベッドの中にいる。
私は薫くんに抱きしめられ、背中を撫でられていた。
「今日はありがとう」
「もう……何回も聞いたよ……」
「何回でも言いたくなっちゃう。それくらい嬉しかったから」
薫くんは、いつもの優しいだけの声ではなかった。優しいながらも、しっとりとしていて、なんだか艶っぽく感じた。それがまた、私をドキドキとさせていた。
ふいに私の背中から、薫くんの手が離れたと思ったら、顎を掴まれた。
少し上を向くようにされると、唇が重なった。
暗くて薫くんの表情はわからない。だけど、今キスをされていることはわかった。
しばらくすると唇は離れ、また私は抱きしめられた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
こんなんじゃ……眠れないよ……。
私は、大暴れをしている心臓が落ち着くのを、ひたすら待っていた。
何分くらい経っただろう。
たぶん……30分くらい?
しばらくすると、薫くんはそっと私から離れ、反対側を向いたようだった。
なんだか少し寂しくなり、私は薫くんの背中にそっと寄り添うようにした。
「まだ起きてたの?」
「……うん」
「……そんなに可愛いことしないで……?」
「え……?」
どういうこと?
薫くんは、またこちらに向き直ったようだった。
「……我慢できなくなっちゃうから」
我慢……
すると薫くんの手が私の左頬に触れ、また唇が重なった。少し離れてはまた重なり……それが何回か繰り返された。
私はそのたびに胸の鼓動が速くなり、呼吸の仕方さえわからなくなっていた。それから薫くんは、唇を離すとぎゅっと私のことを抱きしめた。
「ね?こんな感じに我慢ができなくなる」
「……」
「葵ちゃん、反対側向いてくれる?」
私は言われた通りにした。
薫くんは後ろから抱きしめてくれた。
「葵ちゃんがこっちを向いてると、僕、キスばかりしちゃうから」
もう……本当に今日は、心臓が大忙しだ。
さっき落ち着いてきたはずの、胸のドキドキが、また暴れていた。
「……葵ちゃん?」
「はい……」
「幻滅しちゃった?僕のこと」
なんで?
「してないよ?どういうこと?」
「……ん?大丈夫ならいいんだ」
会話はそこで終わった。
ゆっくりとまぶたを閉じ、眠くなるのをひたすら待っていた。
だけど、頭の中は今日のことばかり……。
キスのことばかりで、すぐに眠れそうにはなかった。
次の日。
目を覚ますと、薫くんはまだ眠っていた。
結局私は、あまり眠ることができなかった。本当はまだ起きる時間ではなかったけど、もう眠れそうになかったから、そのまま起きることにした。
今日も……お弁当、作っちゃおっかな。
昨日あんなに喜んでくれたから。
朝の支度を済ませると、早速キッチンに立ち、朝ごはんの準備を進めながら、お弁当の用意をし始めた。
起きてから40分ほど経つと、薫くんが起きてきた。
「おはよう。今日は早いね。もしかして眠れなかった?」
薫くんの顔を見ただけで、昨日のキスを思い出し、恥ずかしくて下を向いた。
「……おはよう。ちょっと早く目が覚めちゃっただけ」
「そっか」
薫くんが洗面所へ向かうと、私はテーブルに朝ごはんを並べた。全部並べ終え、立ち上がろうとしたら、薫くんが後ろから抱きしめてきた。
「今日は少し遅くなるかもしれない。もし湯船に浸かるなら、早めに出てね?」
「……はい」
薫くんはなかなか離れなかった。
「薫くん?」
「本当は早く帰りたい」
「うん……」
「葵ちゃんは今日、料理教室だったよね?」
「うん。いつもと同じ時間から」
「楽しんできてね」
そこまで言うと、薫くんはいつものところに座った。
朝ごはんと言っても、簡単なものだ。二人で横並びになり、一緒に食べ始めた。
私はやっぱり恥ずかしくて、あまり話すことができなかった。
出勤する薫くんを見送ろうと、玄関まで行った。靴を履き終えた薫くんはこちらに向くと、私の左頬に手を触れた。その先のことを考えると、顔が熱くなった。
薫くんは私を見つめ、ふっと微笑んだ。
それから私のおでこにキスをした。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
外に出ていく薫くんの姿を、私は見つめていた。
今日は雨だ。
ドアを開けた瞬間に、雨の匂いが鼻に届いた。
雨なのに、やっぱり私の心は温かかった。
時間を気にしながら家で過ごし、支度を済ませると、料理教室へと向かった。
今日は優しいタナカさんと同じグループになった。苦手なホンダさんは、来ていなかった。
「今日は一緒だね。よろしくね、藤崎さん」
「はい。タナカさんと一緒になれて嬉しいです」
タナカさんもホンダさんと同じくらいの年齢に見えた。たぶん、40代くらいだと思う。
今日は心が乱れるようなことはなく、楽しくレッスンを終えることができた。
家に帰ると、すぐにお風呂の準備をした。外がジメジメとしていて、ベタつく汗が気持ち悪かったから、まだ夕方にもならない時間だったけど、シャワーを浴びたかった。
全身の汗を流すと、湯船に浸かり、スキマバイトのアプリをダウンロードした。いろいろと登録をし終えると、早速どんなバイトがあるのか見てみた。
荷物を運ぶ系は……無理だな。力も体力も私にはない。コンビニ……は、経験者のみか。
こうやって見ると、私にできそうなバイトは、なかなか見つからなかった。
お皿洗いとか、そういうのから始めたい。いきなり接客は、きっと私には無理。それに怖い。なにか、黙々とできる仕事の方が、私には合っている気がする。
あ……
もう出ないと。
ひとりの時に、のぼせたら大変だ。
私が初めて、この家で戻してしまって以来、常に補水液がストックされている。薫くんが用意してくれたものだ。万が一、“また戻してしまったり、のぼせたりしたら、必ず飲んでね”と言われていた。
薫くん……。
そう考えていると、昨日のキスのことを思い出し、また顔が熱くなるのを感じた。




