86 雨
明日は薫くんの誕生日だ。
1週間前に、薫くんからはケーキを作ってほしいと言われていた。
材料費は結局、薫くんのお金から出すことになるわけだけど、今の私には、料理やケーキを作ることしかできない。
だけど……今できることを私はしたかった。
いつかアルバイトをしたら、薫くんにプレゼントをしたいな。
私は昼下がりのキッチンに立ちながら、そんなことを考えていた。
当日に失敗したら嫌だと思い、私は今日、スポンジケーキを焼くことにした。薫くんの家にはオーブンがないから、今回は炊飯器で作る。
炊飯器で作るのは初めてだったから、それだけは前日に焼くことに決めていた。
材料を混ぜ合わせ、炊飯スイッチをオンにする。
しばらくすると、部屋の中は甘い匂いに包まれた。
上手にできてるといいけど……。
そう思っていると、炊きあがりの合図が聞こえてきた。私はキッチンへと向かい、炊飯器の蓋を開けてみると、スポンジケーキは、ちゃんと美味しそうに焼けていた。
よかった……。
これなら明日、ケーキを作ることができる。
粗熱がとれると半分に切り、それぞれきっちりとラップを巻き、ひとつは冷蔵庫、もうひとつは冷凍庫へしまった。
……明日……薫くんが喜んでくれるといいけど。
ケーキが無事に焼けたから、今度は明日の料理のために、スーパーへと向かった。作るものはもう決めていたから、買い物もすぐに終わった。
家に帰ると、すぐに明日の料理の仕込みをし、そのまま今日の夜ごはんの準備も進めた。
「ふぅ……」
もう夕方か……
今日は雨予報じゃなかったけど、なんだか雲行きが怪しいな。薫くん、折りたたみ傘持って行ったかな?
夜になると、薫くんからメッセージが届いた。
『今から帰るけど、何か必要なものはある?』
『お疲れさま。何もないよ。薫くん、傘持ってる?今にも雨が降りそうなんだけど』
『持ってないけど、降ったらコンビニで傘を買うから大丈夫』
買うって……この家にはすでに、ビニール傘が4本もある。
『もし降っちゃったら、迎えに行くよ』
そう送ると、すぐに着信があった。
『本当に大丈夫だよ?買えば済むんだから』
「だけど、もうお家に4本も傘があるよ?」
『……確かに……』
「ね?だから迎えに行くから」
『ありがとう。じゃあ雨が降っちゃったらよろしくね』
通話を終了すると、10分もしない間に大粒の雨が降り始めた。
やっぱり降ってきた。
私は時間を確認しながら過ごし、準備を済ませると傘を2本持って家を出た。
さっきよりも雨は少し弱まっていたけど、傘が必要なほどには降っていた。
駅に着くと傘を閉じ、改札の近くで薫くんのことを待っていた。
すると、手にしていたスマホが震えた。
『今電車を降りたよ』
私は改札に流れ込んでくる人を目で追った。
……あ……薫くんだ。
薫くんも、すぐに私に気がつくと、軽く右手を上げていた。
周りにはたくさんの人がいたのに、薫くんのことだけが、はっきりと見えていた。
「お待たせ。迎えにきてくれてありがとね。危うく傘が増えるところだったよ」
「ふふっ。だから4本もあったんだね」
元の家には、傘は必要な分しかなかったから、薫くんの家に、4本もビニール傘があることに気がついた時、不思議に思ってた。
きっと、今日みたいな日に買って、少しずつ増えていったんだな。
駅を離れるほどに、さっきまで周りにいた人たちは散り散りになり、傘に雨が当たる音と薫くんの声だけが耳に届くようになっていた。
家に着くと、薫くんはすぐにシャワーを浴び、私はごはんの準備をした。
雨の中、傘をさしながら、ああやって一緒に歩くのもいいな。
それだけでも、私は楽しく感じていた。
二人でごはんを食べていると、いつものように会話を楽しんでいた。
「あ、そうそう。葵ちゃんて、お風呂好きだよね?前に、夜は湯船に浸かりながら、僕とメッセージのやり取りをしてたって言ってたよね?」
「うん。それがどうしたの?」
「今まで気が利かなくてごめんね。これからは毎日お湯張っていいから。そうしたら、僕も毎日湯船に浸かるのを習慣づけるよ」
「いいよいいよ。私に合わせなくても」
「ううん。僕がそうしたいんだ。なんだか葵ちゃんと一緒に住むようになってから、ちゃんとした生活をしているって、よく感じるようになったんだよね」
それは、喜んでいいってことなのかな?
雨はさっきよりも強く降っていたようで、ザーザーとした音が、耳に届いた。
「ね?だからそうしてもらえると、嬉しいんだけど、どうかな?」
「わかった。明日からそうするね」
私がそう言うと、薫くんは優しく微笑んでいた。
「あ、でも、葵ちゃんは長風呂禁止。貧血起こしやすい体質なんだから、ちゃんと気をつけないと」
「はい」
パパからも、私は貧血になりやすいと言われていた。だけど、頻繁に立ちくらみを起こしていたから、それが貧血なのか、めまいからくるものなのかは、自分ではわからなかった。
だけど、薫くんと一緒に住むようになってからは立ちくらみもほとんど起こさなくなっていた。
「あと、僕が家にいない時は、体が温まったら出るようにして?何十分も入ったらだめだよ?」
「わかった」
「ごめんね。口うるさく言っちゃって」
大丈夫。薫くんは私のことを心配して、そう言ってくれている。ちゃんとわかってる。
「ううん。ありがとう。気をつけるね」
静かな部屋には、薫くんの優しい声と、雨の降る音だけが響いていた。
雨の日って、今までは気持ちがよく落ち込んでいた。だけど、今日みたいな日が積み重なるたびに、雨の日が苦手ではなくなってきていた。




