85 ゾワゾワ
気持ち悪さが落ち着くと、薫くんは私から離れた。
「もう大丈夫そうだね。めまいはないんだよね?」
「うん……」
「ゆっくりでいいから補水液を飲んで?着替えるのもゆっくりでいい。急がないで?」
「はい……」
薫くんはトイレを出ていくと、ドアをそっと閉めた。
私は洗面所に移動すると口をすすぎ、それから補水液をゆっくりと飲んだ。
しばらくしゃがんでいると、徐々に気分が良くなってきたから、ゆっくりと立ち上がり、服を着た。
また……見られたくないところを見られちゃったな。
髪も乾かし終わり、リビングへと向かった。
すると、心配そうな顔をした薫くんが私を見た。
「気分はどう?」
「大丈夫。落ち着いた。ありがとね」
「気にしないで?」
私はソファに座っている、薫くんの隣に座った。
「本当に具合は落ち着いた?」
「うん」
「何があったの?」
私はお風呂でのことを話した。立ちくらみをしたこと、浴室から出ても、それは変わらなかったこと。
それから……薫くんにも前に話したことがあった、パパとの浴室での出来事を思い出してしまったこと。
それで気持ちが悪くなってしまったこと……。
薫くんに話しているうちに、また思い出してしまって、手が少し震えてしまった。
そんな私の震える手を、薫くんはそっと握ってくれた。
「他には……何かある?お父さんのことを思い出して気持ち悪くなる他に……今みたいに手が震えるとか、例えば胸が苦しくなるとか」
薫くんは、ずっと心配そうにしていた。
ごめんなさい……そんなに心配をかけちゃって……。
そう思いながらも、私はゆっくりと口を開いた。
「思い出すと……体がゾワゾワとする……」
「……全体的に?それとも決まったところ?」
とくに背中だ。
パパはよく、後ろからハグをしてきた。パパの体温を背中に感じ、最初は嫌悪感を覚えた。だけどそれもそのうちに慣れ、違和感へと変わった。
でも……あの日のことが、強烈に記憶に残っている。
私が買った下着をパパが見つけ出し、それを目の前で着替えさせられた時のこと。
あの時パパは、下着姿の私のことを前から抱きしめ、何度も背中を撫でていた。
「……背中……」
薫くんの顔は悲しげに歪んでいた。
「今、抱きしめてもいい?」
「……そうして……ほしい」
私がそう言うと、薫くんは優しく抱きしめてくれた。
「……背中……撫でてもいい?」
「うん……」
薫くんは、そっと背中を撫でてくれた。
「どう?ゾワゾワする?」
まだゾワゾワとはしている。だけどそれは、薫くんに背中を撫でられているからではない。私が忠実に、あの日のことを思い出していたから。
「薫くんにそうされてもゾワゾワしない。だけど、あの感覚が忘れられない」
「……だったら、それを忘れるくらい、毎日僕が背中を撫でてあげる。上書きしてあげる」
「……」
「もう、その時のことを思い出すことのないように。こうやって毎日、葵ちゃんのことを抱きしめるよ」
「っ……」
私はその言葉を聞き、また泣いてしまった。
「大丈夫。大丈夫だよ、葵ちゃん」
優しい薫くんの声が耳に届く。
薫くんは、本当に長い時間、私のことを抱きしめ、背中を撫で続けてくれた。
薫くんの息づかい、いつもよりも近い声、温もりと、同じボディソープとシャンプーの匂い……
それらを感じているうちに、徐々にゾワゾワとした感覚はなくなっていき、落ち着いてきた。
「もう……大丈夫」
「本当?」
「うん」
私は少し薫くんから離れた。
すると、薫くんは前のように私の左頬に手を添えた。
「本当にもう大丈夫?」
「うん……大丈夫。ありがとう」
薫くんの顔は、まだ心配そうにしていた。
しばらくの間、お互いに見つめ合っていた。
次第に、私の鼓動は早くなっていた。
なに……この時間……。
そう思っていると、薫くんの顔が近づき、私は咄嗟に目を閉じた。
すると、薫くんは私のおでこにそっとキスをした。
……唇にされるのかと思った……。
だけど、おでこへのキスだけでも、私の心臓は大暴れしていた。
顔が熱い。火がでてしまいそうだ。
「ふふっ。ちゅーしちゃった」
薫くんは、お茶目にそう言った。
その日、一緒に布団に入ると、薫くんはそっと私を抱き寄せ、また背中を撫でてくれた。
たぶん……パパのことを思い出せば、私は簡単に“あの日”に引き戻される。
だけど……それと同時に、こうやって薫くんに背中を撫でられている時のことも、思い出すのではないかと思っていた。
そう思ってしまうほどに、私は薫くんの手に、安心感を覚えていた。
次の日から薫くんは、本当に毎日私のことを抱きしめ、それから背中を撫でてくれた。
「どう?ゾワゾワする?」
「……思い出さなければ大丈夫」
「……思い出してみて?」
え……?
その言葉で、一瞬にしてフラッシュバックが起こった。
ゾワゾワする……。
私の体は強張った。
「ごめんね。やっぱり思い出すと、ゾワゾワしちゃうね」
薫くんは、私の些細な変化を読み取ったのか、そんなふうに言っていた。
「大丈夫。もうあんなことは二度とないから」
「……」
「大丈夫だから。ちゃんと忘れられるから」
そう言いながら薫くんは、何度も私の背中を撫でてくれた。
こうされるたびに、私の五感は、どんどんと薫くんのことをインプットしているような感覚になった。
薫くんの優しい声……薫くんの匂い……腕に感じる薫くんの体……抱きしめられる直前に見る薫くんの表情……それから薫くんの体温……。
五感とは少し違うのかもしれないけど、私のあらゆる感覚が、薫くんのことを感じ取っていた。
だからあの時のことを思い出してしまっても……背中がゾワゾワとしてしまっても、薫くんにこうされれば、すぐにあの嫌な感覚は無くなるようになっていた。
「もう大丈夫」
「本当?」
「うん」
薫くんは、また前のように、私の左頬に手を触れた。
その表情はとても優しかった。
それから顔が近づき、今度こそ……?と、少し期待をしていると、右頬にちゅっとキスをされた。
あ……今回も違ったのか……。
私は自分の勘違いに恥ずかしくなり、そっと俯いた。




