84 フラッシュバック
季節はとっくに梅雨入りしていた。
私は薫くんを見送ると、いつも通りに過ごした。お昼になると、適当にごはんを済ませ、刺繍を始めた。
最初の頃よりは上達したと思う。
ママの刺繍と見比べてみる。
……全然違う。
そりゃそうだよね。私はまだ始めてからちょっとしか経ってないもんね。まだ飽きてないし、コツコツ続けていければいいな。
そう思っていると、薫くんから着信があった。
「はい」
『体調はどう?』
「朝と変わらず元気だよ」
『よかった。あのね、今日湯船に浸かりたいから、お風呂の準備をしてもらっていいかな?』
「わかった。帰りはいつも通り?」
『うん。そうだよ』
そんな会話をしたあと、少し他愛のないことも話してから通話を切った。
窓の外を見てみると、雨が降っていた。小雨だ。天気はこんな感じに雨だけど、私の心は晴れ晴れとしていた。
薫くんとの生活が、徐々に自然になっていくのを実感し、心が温かい日が続いていた。
薫くんはいつだって、私のことを応援し、背中を押してくれる。それから人付き合いのことも教えてくれ、私がまだ“ひよこ”だということも教えてくれた。だから焦らなくていいんだよと……。
落ち込む私を励まし、焦る私を落ち着かせてくれる。
とても愛の深い人だと思った。
それは恋愛的な意味ではなくて、人間的に。
薫くんの、その深い愛に触れるたびに、パパの愛情は歪んでいたのだと、感じるようになっていた。
時間を確認しながら薫くんの帰りを待ち、夜ごはんの準備をする。お風呂の準備も済ませると、薫くんから着信があった。
『もう帰るよ。何か欲しいものとか、買い忘れたものとかある?』
「大丈夫だよ。お風呂ももう準備してるから、帰ったらすぐに入れるよ」
『お風呂はゆっくり入りたいから、ごはんを食べ終わってからにするよ』
……なんか……同棲カップルみたいな会話……。
あ……
私たち、恋人同士なんだった。
だったら、同棲カップルで間違いないのか。
「わかった……待ってるね」
『ふふっ。急いで帰るから、待っててね』
急いで帰るから……
それを聞いて、なんだか照れくさく感じてしまった。
薫くんが帰ってくると、二人で夜ごはんを食べ、それが食べ終わると、薫くんはお風呂に入りに行った。
その間に食器を洗い、シンクを磨いた。
薫くんが出てくると、次は私がお風呂に入った。
湯船に浸かるのは久しぶりだった。
薫くんは忙しいからか、いつもシャワーで済ませていた。だから私もそれで済ませていた。私のためだけに、お風呂をためるのは勿体無いし、自分からはとてもじゃないけど、言い出せなかった。だから久々の湯船にテンションが上がってしまった。
「ふぅ……気持ちいい……」
思わずそう声が漏れてしまうほど、体の力が緩み、心地よかった。
私はスマホで、刺繍の動画を流すと、それを夢中になって見ていた。
すごい……こうすると、こんな感じになるんだ。こんなやり方もあるんだ。
そうやって、動画に釘付けになっていた。
しまった……長いこと、浸かってしまった。
もう出ないと。
立ち上がると、クラクラとした。
あー……やっちゃったかな……。
しばらくそのままじっとし、落ち着いてくると浴室から出た。
その瞬間、また立ちくらみを起こし、スマホを床に落としてしまった。
そのまましゃがみ、じっとしていた。
こちらに足音が近づいてくる。
すると、その足音は脱衣所のドアの前で止まった。
「葵ちゃん?大丈夫?」
その時──
パパのことがフラッシュバックした。
急いでバスタオルを手に取ると、体の前に抱えた。
あの時のことを思い出し、思わず嗚咽が漏れる。
「どうしたの?めまい?気持ち悪いの?」
薫くんの焦った声が聞こえてきた。
「大丈夫」
「吐きそう?今入っても大丈夫?」
「だめっ……入ってこないで……」
吐きそう。
体がゾワゾワとする。
あの時……パパに体を拭かれて、すごく嫌だった。
「どんな症状か教えて?しゃべれる?」
「たぶん……のぼせた……」
「わかった。ちょっと待ってて」
薫くんが、ドアから離れた気配がした。だけどすぐに戻って来たようだった。
「ほんの少しだけドアを開けるよ?僕は中を見ないからね?いい?」
「……うん」
するとドアが本当にほんの少しだけ空き、薫くんの手が伸びてきた。その手には補水液があった。それを床に置くと、すぐにドアが閉まり、「それを飲んで。それから気分が落ち着くまでじっとしてて。僕はここにいるから、何かあったら声をかけてね」と、そう言ってくれた。
薫くんはパパと違って、強引にドアを開けて入ってくることはしなかった。
私は這ってペットボトルを手に取ると、それをゆっくりと飲んだ。
だけど吐きそうになり、急いでバスタオルを体に巻き付けると、ドアを開けてトイレに駆け込んだ。
さっき食べたものが、まだ消化されていない状態で出てきた。
だけどこの吐き気は、のぼせからくるものではない……と思う。さっきまでは、ただ頭が少しクラクラとするだけだったから。
これはたぶん……パパのことを思い出したから。あの時のことを思い出したから……。
「大丈夫?入ってもいい?」
……どうしよう。
薫くんは、すごく心配している声だった。
バスタオル巻いてるから……いいかな?
「吐いてるの?」
「うん……」
「僕が入ったらまずい?」
「……大丈夫……」
薫くんはトイレに入ってくると、すぐにバスタオルを私の肩から掛けてくれ、それから背中を撫でてくれた。
こんな姿、見られたくなかった……。
「大丈夫。落ち着いて。吐ける分だけ、全部出しちゃっていいから」
「……ごめんなさい」
「ううん。大丈夫だから。余計なことは考えないで?」
私は薫くんの言う通り、吐けるだけ吐いた。すると、徐々に気持ち悪さは落ち着いた。
だけど……体がゾワゾワとする感覚は、消えないままだった。




