83 雛
ごはんを食べ終わると片付けをして、二人でソファに座った。
今日は無言のまま食事を済ませたから、とても居心地が悪かった。
「何があったの?」
「……えっとね……」
「うん。ゆっくりでいいからね」
だめだ。こういう時に優しくされると、すぐに涙が出てきてしまう。
「落ち着いて?大丈夫だから」
私は今日の出来事を、泣きながら話した。別に泣くようなことではないと、頭ではわかっていた。なのに次々と涙があふれ出てしまった。
薫くんは時おり、質問を挟みながらも、しっかりと私の話を聞いてくれた。
「よく頑張ったね。だけどね、前にも言った通り、他人の言葉で傷つく必要なんてないんだよ?」
「頭ではわかってたの。ちゃんと薫くんが言ってくれた言葉も思い出してたし、気にしないようにって……だけど……私……」
「うん。なに?」
「役立たず……」
私が消え入るようにそう言うと、薫くんは私の左手を握ってくれた。
「葵ちゃん」
「はい……」
「葵ちゃんは役立たずなんかじゃない。葵ちゃんがいなかったら、僕は毎日コンビニ弁当とか、デリバリーの生活をしていたんだよ?僕ね、葵ちゃんの料理を食べるようになってから、疲れにくい体になってきたんだ。だから食事ってすごく大切なんだと身をもって知ったよ。医者なのにおかしいでしょ?そんなことに今さら気がつくだなんて」
薫くんは、お茶目にそう言っていた。
「それにね、葵ちゃんは家事全般してくれるでしょ?正直助かってるんだ。いつでも部屋は綺麗だし。それに洗濯物だって……今までは全部乾燥機におまかせで、乾いたらそこから必要なものを取り出して着てたんだよ?ズボラでしょ?だけど今は──」
そう言って、どんなに私が薫くんの役に立っているかを話してくれた。
「あ、そうそう。ちょっと待ってて」
薫くんは立ち上がると、寝室へ向かい、手にはトレーナーのようなものを持って戻ってきた。
「ほら見て?これ乾燥機にかけちゃいけなかったみたいで、こんなに縮んじゃったの。僕には小さいでしょ?」
トレーナーを自分の体に当てながら、薫くんは笑ってそう言った。
「ふふっ」
私もついつい、笑いを漏らしていた。
そんな私を見た薫くんは、ふっと微笑んだ。
「葵ちゃん、ちょっと立って?」
言われた通りにすると、薫くんは私の体に、トレーナーを当てていた。
「葵ちゃんには少し大きいかもしれないけど、これ着る?似合ってるよ?僕のお下がりだけど」
なんか……いい。
彼氏の服を着るのって、なんだかすごく彼女っぽい。
「いいの?」
「うん。あげるよ。それお気に入りだったから、捨てるに捨てられなかったんだ。だから葵ちゃんに着てもらえると嬉しいな」
薫くんのお気に入り……。
私は余計に嬉しくなってしまった。
また二人でソファに座り直すと、薫くんは話し始めた。
「さっきの話に戻るけど、葵ちゃんはさ、まだ雛のようなものなの」
「雛?」
「そう。“ひよこ”なの。社会との繋がりを持ち始めたばかりのひよこ。だからちょっとしたことで傷ついたり、不安になったりするのは当然のことなんだよ?」
「でも、泣くほどのことじゃない。頭ではわかってるの」
「今言ったでしょ?葵ちゃんはまだ“ひよこ”なんだよって。だって葵ちゃん、まだ2回目なんだよ?料理教室に行ったの。こういうのは積み重ねなんだよ」
「積み重ね……」
「そう。これからたくさんの人と出会う。ホンダさんみたいな人にも、まだまだ出会うかもしれないし、タナカさんみたいな人とも、出会うかもしれない」
そうだよね。タナカさんみたいな人もいるんだもんね。みんながみんな、ホンダさんみたいな人ばかりじゃないもんね。
ホンダさんにああ言われただけで、私はみんなからそう思われているような気になっていた。
「だからね、また今日みたいな日がいつかくるかもしれない。そんな時は、いつでも僕に話して?些細なことでもいい。違和感を覚えたことでもいい。そんな時は、僕がいつだって受け止めるから」
私は嬉しくて、薫くんの胸に飛び込んだ。
「いつもありがとう」
「ううん。葵ちゃん、よくがんばってるもん。少しずつ、ゆっくりと慣れていこう?焦らなくていいから」
薫くんは私のことを抱きしめながら、そう言ってくれた。
これからどんな人と出会うのか……そう考えるとやっぱり不安になるけど、私には薫くんがいるから大丈夫。
薫くんの体温が、言葉が、私の卑屈な気持ちや後ろ向きな考えを、また光の方へと導いてくれた。
落ち着くと、私は薫くんから少し離れて顔を上げた。
……顔が……近い。
一気に全身が熱くなる。
早く離れないと。
そう思っていると、薫くんは私の左頬に触れてきた。
シーンとした、静かな時間が流れていた。
もしかして……キス……?
薫くんは優しく微笑んでいた。
「かわいい」
「……」
「もう1回、抱きしめてもいい?僕まだ足りないから」
返事をする前に、薫くんは私を抱き寄せた。
「ごめんね。もう少しこのままでいたい」
「……うん」
びっくりした……。
キスするのかと思った……。
……なんか、そう思ってしまった自分を、恥ずかしく思った。
さっきまで落ち込んでたのに、私……もうそんなことを考えてるだなんて。
きっと顔が赤かっただろうから、またこうやって抱きしめもらえて逆によかったのかも……。
私はそんなことを考えながら、薫くんの背中に腕を回した。




