77 いつも
来月は薫くんの誕生日だ。ケーキを焼きたいけど、ここにはオーブンがない。
前に“いつか僕にも作って”と言われていたから、どうしてもケーキを作りたかった。そこで、何か方法はないかと探してみると、炊飯器でスポンジケーキを焼く方法を発見した。
これなら作れるかも。
私はそのレシピをスクショして、保存しておいた。
だけど、二人で食べるには大きいサイズだな。半分にして、可愛くデコレーションするのはどうだろう?イチゴやブルーベリーなんかをトッピングして……。
まぁ、まだ時間はある。もう少し色々と考えてみよう。
私が今、こんなことを呑気に考えられるのは、全部薫くんのおかげだ。助けてくれたからだ。それに、この前のことも思い出していた。薫くんが、最悪の想定を話していた時のことを……。
あの時の薫くんは、怒っているように感じたけど……ううん……たぶん、怒っていたことには変わりはないんだろうけど、それは私のことを心配してくれていたからだ。だからあんな真剣に、叱ってくれたんだ。
薫くんには本当に、感謝しかない。
もう二度と、あの家には行かない。ママが刺繍してくれたものも今は手元にあるし、もうあの家に、私が大切なものはひとつもない。ママとの写真は何枚かスマホにデータとして入ってる。本当に、あの家にはもう……。
ソファに座り、私はそんなことを考えていた。
時計を確認すると、夕方になろうとしていた。
私は立ち上がり、キッチンへと向かうと、冷蔵庫の中を確認した。
作り置きが少なくなってきたな。また少し作っておくか。
薫くんが買ってくれたエプロンを身につけると、食材を色々と取り出し、料理を始めた。
テレビもつけず、曲もかけていなかったから、静かな部屋には、包丁がまな板をトントンとする音、フライパンからはジューっと食材が焼ける音、それらだけが響いていた。
夜になり、薫くんが帰ってきた。
一緒に夜ごはんを食べていると、薫くんはこんなことを言い始めた。
「葵ちゃん、ずっと調子いいよね?」
「うん。薫くんのおかげだよ」
「ふふっ。それでさ、前に葵ちゃん、アルバイトがしたいって言ってたでしょ?」
できるの?していいの?
「うん」
「アルバイトをする前に、ちょっとした提案があるんだ」
「なに?」
話はこんな感じだった。
何か習い事をしてみないかと。そうすれば、人と接することになるし、時間通りに目的地に行き、決まった時間その場にい続ける。せいぜい1〜3時間程度だろうけど、いいリハビリになるんじゃないかと……。
「でも……それだとお金がかかっちゃう」
「それは気にしなくていいよ?何か習ってみたいものはない?手芸、フラワーアレンジメント、ヨガ、色々あるよ?」
私は断ろうと思ったけど、話が進んでしまった。
「本当にいい」
「やってみよう?葵ちゃん、ずっとお父さんと、雫さんとしか関わってこなかったでしょ?外には色々な人がいるよ?自分とは考え方が違う人、本人にそんなつもりはなくても言葉がキツイ人、悪意がある人」
……ドラマやアニメでも見たことがある。それに中学生の時に、たまに学校へ行くと、周囲は私のことを見てコソコソと何か言っていた。それがとても居心地が悪かった。
そういうことが、またあるのかもしれない。
それに私は、今までまともな人間関係を築いたことがなかった。
「別に葵ちゃんのことを、怖がらせたいわけじゃないんだ。ただね?本当に世の中には優しい人ばかりじゃないから。だからバイトをする前に、少しでも色々な人と交流してみるといいんじゃないかって思って」
私のためだ。
確かに、私は初対面の人と何を話していいかわからないし、ちゃんと話せるのか不安になってきた。
「ごめんね?不安にさせちゃったよね?葵ちゃんはちゃんと、コミュニケーションが取れる子だから安心して?」
「うん……」
「……僕が何を言いたいかと言うと、葵ちゃんってとても素直な子だから、それが少し心配なんだ」
「……どうして?」
薫くんはお箸を置いて、私のことをじっと見た。
「他人の言葉に傷つかないか、それだけが心配なんだ。さっきも少し話したけど、本人に悪気がなくても、ずけずけとものを言ってくる人もいる。葵ちゃんが聞かれたくないと思ってることを聞いてくる人もいる」
聞かれたくないこと……。
「葵ちゃんが言いたくないことは言わなくていいし、もしも傷ついたなら、それは傷つかなくて大丈夫だから。他人の言うことに振り回されないで?それでもし、不安になることがあったら、必ず僕に話して?」
薫くんが言っていることは、頭では理解した。だけど、どれも経験のないことだったから、いまいちピンとこなかった。
それだけ、私は狭い世界で生きてきたんだ。
ほぼパパ。
やっぱり薫くんは、私を前へ前へと導いてくれる。アルバイトも応援してくれている。でもその前に、ワンクッション挟もうとしてくれてるんだ。
習い事……
だったら……
「料理教室がいい」
「え?もう十分美味しいよ?今日のだって、これも……これもこれも、全部美味しいよ?」
薫くんは料理を指差し、そう言ってくれた。
「今までレシピ本とか、動画サイトとかを見て、なんとなく作ってたから。ちゃんと習ってみたい」
「ふふっ。いいよ。じゃあ料理教室を一緒に探してみようか」
一緒に……
いつも薫くんは、そう言ってくれる。
いつも薫くんは……私に寄り添ってくれる。




