76 反省
料理の仕上げをすると、私はそれを次々とテーブルに並べていた。
「葵ちゃん?」
シャワーを浴び終えた薫くんが話しかけてきた。
「ん?」
「今日何かあった?」
「ううん」
「寒いの?」
「……」
「なんでパーカーを羽織ってるの?今日はあったかいよ?」
今は日中や部屋の中なら、半袖でも過ごしやすくなっていた。昨日も半袖のTシャツで過ごしていたから薫くんは疑問に思ったんだろう。
「少し寒気が……」
私がそう言うと、薫くんは私のおでこに手を当てた。
「……少し微熱があるかも」
「……」
「葵ちゃん」
「はい……」
「そういう時は無理してごはんを作らなくてもいいんだよ?」
たったそのひと言だけで、涙が出そうになった。
「ね?」
薫くんはいつも通りの優しい顔だった。
それから薫くんは、テーブルの前に座った。
「食欲はある?」
料理を全て揃えた私も、薫くんの隣に座った。
「うん。大丈夫。食欲はあるよ」
「ならよかった。明日は無理しないでね?」
「うん。ありがとう」
私は手首の傷が見えないように気をつけながら、目の前の料理に手を伸ばした。
薫くんは、今日はやることがあったみたいで、ごはんを食べ終わると、すぐにデスクに向かった。私は食べ終わった食器を重ねると、シンクに持って行き、袖をまくって洗い始めた。
手首の傷が目に入る。
私の目には、結構酷く見えた。あの時は必死だったから、ここまでたとは思っていなかった。足を思い切り伸ばしている時は、手首に負担がかかり、痛みを感じていたけど、普通にしてる分なら、痛みは気にならなかった。
これ……どのくらいで治るかな。
私は、薫くんがこちらに来ないか気にしながら、洗い物を続けていた。
寝る時間になっても、薫くんはデスクに向かったままだった。
本当にすごいな。薫くんは……。
「薫くん。私、もう少ししたら寝るね」
「うん。僕ももうすぐ終わるから、先に寝てていいよ」
私はそれを聞き、洗面所に向かうと、歯を磨き始めた。
今日は……絶体絶命な状況だったな。
あのまま逃げられなかったら、今頃私は……。
それに……
私はパパの言葉を思い出していた。
“明日はパパ休みだから、たくさん愛し合おうね”
思い出しただけでもゾッとする。パパは本当に私と……そう思うと、また気持ち悪くなり、嗚咽が漏れた。
刺繍を始めてよかった。今日、あの刺繍の道具が入ったポーチを持ち歩いていてよかった。
もしかして、ママが助けてくれたのかな……?
私は歯ブラシを動かしながら、そんなことを考えていた。
薫くんがあの時、私に何か趣味はないのかと聞いてくれたから、ママの刺繍のことを思い出した。それで私も刺繍を始めて、外にもよく出るようになって……。
刺繍を始めていなかったら、私は今日、刺繍ポーチを持ち歩いていなかった。糸切りバサミなんて、持ち歩いていなかった。そう考えると、私はまたゾッとした。
ふと鏡に映る自分を見る。
口の端に、歯磨き粉がついていた。
歯磨き粉で汚れてしまった口周りを綺麗にするために、少しだけ袖をめくると、手で水を掬い、洗っていた。
すると──
急に腕を掴まれた。
「……なに……これ……」
驚きと困惑と……怒りや心配の感情が入り混じったように、薫くんは顔を歪ませていた。
……考え事をしていたから、薫くんが近づいてきたことに全く気がつかなかった。
「あの家に行ったの?」
蛇口から水が流れる音が、ただただ響いていた。
言いたくない。
「縛られたの?」
薫くんはびちょびちょに濡れている、私の手を取ると、両手首を確認していた。それから水を止め、私の手と口元をタオルで拭くと、手を握り、ソファへと連れてこられた。
座るように言われ、その通りにすると、薫くんは目の前にしゃがみ、私の両手を握った。
「教えて?今日何があったのか」
言ったら……嫌われちゃうかな。
せっかく薫くんは、私のことを助けてくれたのに、それを台無しにしてしまうところだった。私の浅はかな考えで……。
呆れられちゃうかな……。
薫くんの顔は、少し怒っているように見えた。
これはもう……本当のことを言わないと。
私は今日のことをゆっくりと話し始めた。
緊張からか、握られている手はしっとりとし始めた。
静かな部屋に、私の声だけが響いていた。
薫くんは……
ずっと眉を寄せたまま、一度も表情を緩めなかった。
「なんで僕に相談しなかったの?」
「……さっと取りに行って、すぐに帰るつもりだったから……」
「今回はたまたま助かったけど、もしも糸切りバサミを持っていなかったら、今頃どうなってたかわかるよね?」
「……」
私は静かに頷いた。
「もしもビニール紐じゃなくて、しっかりとしたロープだったら?それだと糸切りバサミなんかじゃ切れないよね?それに足も縛られていたら?バッグが近くになかったら?口もガムテープで塞がれていたら?睡眠導入剤を飲まされていたら?」
睡眠導入剤……
それを聞いて、私は思い出した。
“おとなしく眠って待っててね”
そんなパパの言葉を……。
もしかしたらあの薬は、睡眠導入剤だったのかもしれない……。
薫くんの表情はずっと険しかった。
「そういうことまで、ちゃんと考えた?もしお父さんと鉢合わせをしたら、どんなことになるか、そういうことを想定してから、あの家に行ったの?」
そこまで……考えてなかった。
私の中では、パパは診察中だから“きっと大丈夫”だと、楽観的に考えていた。
急にまた、あの気持ち悪いパパのことを思い出し、恐怖が蘇ってしまった。
「……ごめんなさい」
「……もう二度とこんなことしないで」
「はい」
「何か取りに行きたいなら、僕も一緒に行くから」
「はい」
「……お父さんに、何か薬を飲まされたりした?」
私はパパに、薬を口の中に押し込まれたことも言った。
すると、薫くんの顔が険しくなった。
「飲んだの?」
「パパがいなくなってから吐き出した」
私がそう言うと、薫くんの手に力が入った。
「いい判断だよ。偉かったね。それで……本当に何もなかったんだね?服を脱がされたり、体を触られたり」
「うん。パパ、診察の合間に抜けて来たみたいだから……」
「お父さんが葵ちゃんのスマホやバッグに触れたりは?」
「してない」
薫くんは息を深く吐いたあと、私のことを抱きしめてくれた。
「よかった……無事で。怖かったよね?」
その声は、いつも通り優しいものだった。
私も薫くんの背中に腕を回した。
「ひとりでよく頑張ったね。よく帰ってきたね。もう泣かないで?」
その言葉を聞き、私は余計に泣いてしまった。




