75 帰らないと
うん……大丈夫。
さっきよりは落ち着いてきた。
今まで薫くんがくれた言葉が、私を励ましてくれた。
必ず戻りたい。薫くんの元へ……。
私はまず、左脚を伸ばすと、左ももに糸切りバサミを足の指に挟んだ右足を乗せた。それから左脚の膝を立てると、右足が一気に顔に近づいた。首を伸ばし、糸切りバサミに口を近づけた。それを口で受け取り……
ここからどうしよう。
そう思ったけど、口に咥えた糸切りバサミを、手に渡すことは簡単だった。正座を崩したように座り直すと、腰を浮かせ、手元に糸切りバサミを届けた。ハサミのキャップを外し、手探りで私の手首と、ドアノブが繋がれている紐を切ろうとした。
だけど見えない上に焦ってしまい、なかなか紐は切れなかった。
早くこの紐を切らないと……と、さっきとは少し違う焦りが出てしまい、自分の指を切ってしまった。
「っ……」
大丈夫。落ち着いて。絶対に上手くいくから。
私はそう言って自分を励まし、また紐を切る作業をしていた。紐を1本1本切るように、ゆっくりと時間をかけた。
少しずつ、紐が切れていく感覚があった。
また時計を確認する。
まだ時間はある。私は少しだけ休憩を挟み、また紐を切る。それからまた休憩を……と、落ち着いてその作業を続けていた。
すると、急にガクンと腕が下がった。
切れた……。
できた……私にも……。
ドアノブと、私の腕が切り離されただけで、両手首はまだ繋がったままだった。今度は縛られている、自分の手首の紐を切ろうとしたけど、それは難しくてなかなかできなかった。
もういい。このまま外に出よう。
繋がれたままの両腕で、床に散らばったバッグの中身をしまうと、すぐに玄関に向かい靴を履いた。
それから玄関のドアを開け、駅とは逆方向に走り出した。
どこに人感センサーがあるかわからない。
もし、玄関にそれが設置されていたら、またパパに通知がいってしまう。
診察中のパパが私を追いかけて来るとは考え難いけど、もしも追いかけるなら駅の方に行くんじゃないかと思った。
私は住宅街をとにかく走った。
時々後ろを振り返っては、パパの姿がないか確認をし、ただただ入り組んだ道を走り続けた。
……もう……大丈夫かな……?
脇腹が痛くなり、私は後ろを気にしながら歩いていた。
すると、40代くらいの女性の姿が見えた。私はその女性に駆け寄り声をかけた。
「すみませんっ」
その女性は振り向くと、キョトンとした表情をしていた。だけど私の姿を見た瞬間、青ざめていた。
「どうしたの?何があったの?逃げてきたの?」
とても心配そうにしながら、慌ててそう聞いてくれた。
「大丈夫です。私のバッグに、糸切りバサミが入っているので、この紐を切ってもらえませんか?」
私がそう言いながら、女性に縛られた手首を見せるようにした。その女性は私が肘にかけていたバッグの中を探るようにしてくれた。それから糸切りバサミを手にすると、手首を縛っていた紐を切ってくれた。その間も、私は周りを確認していた。
「ありがとうございます」
「何があったの?今から一緒に警察に行こうか?」
「いいえ。大丈夫です」
「大丈夫って……こんなに手首が赤くなって、血も滲んでるじゃない。監禁されてたの?」
女性は本当に心配そうにしていた。
「本当に大丈夫です。助けてくださって、ありがとうございました」
とにかくこの場から、すぐにでも離れたかった。
「放っておけない。事情があるなら何も聞かないから、手当だけでもさせて?」
その女性は、私の手を握りながらそう言ってくれた。その優しい言葉に、一瞬心が揺らいだ。だけどやっぱり、この場からすぐに離れたい気持ちに変わりはなかった。
「本当に助かりました。ありがとうございました」
私はそれだけを言うと、家から遠い方の駅へと向かった。薫くんの家とは逆方向の駅。こっちの駅に向かってるとは、さすがにパパも思わないだろう。
そもそも私を追って来ているかどうかもわからない。だけど、念には念を入れておきたかった。
無事に電車に乗ると、私は薫くんの家へ向かった。
そうやって帰っている時に、ふと薫くんのこんな言葉を思い出した。
“帰ろう?僕たちの家に”
僕たちの家……
私は、薫くん家に行くんじゃないんだ。
帰るんだ……。
さっきもそう思ったんだ。
“絶対に……私はあの家に帰るんだ”と……。
いつの間にか私の中では、薫くんのお家が帰る場所になっていた。
パパはもう……きっと昔の優しいパパに戻ることはない。今日それがはっきりとわかった。私の淡い期待は打ち砕かれた。
それがわかった瞬間、今までの優しいパパの笑顔が、音を立てて崩れるような感覚に陥った。
悲しい……
苦しい……
そんなの信じたくない……。
だけど、はっきりとあの時の嫌悪感を思い出す。パパから逃げたいと思う気持ちは本物だ。
私には……もう”家族”と呼べる人が、いなくなってしまったんだ。
家に着くと、すぐにシャワーを浴びた。両手首の傷にお湯が染みてじんじんとする。シャワーから上がると、部屋着に着替え、手首に軟膏を塗ると、薄手のパーカーを羽織った。
暑い……
だけどこれを脱ぐことはできない。
薫くんが帰って来るまでは袖をめくり、夜ごはんを作っていた。でも、薫くんが帰ってくると、私はすぐに袖を下ろした。




