74 私の家は、ここじゃない
パパは気持ち悪い笑顔をしていた。
目がなんだかおかしかった。
笑ってはいるけど、感情が読み取れない。
怒っているのかもわからない。
そんなパパの手には……
ビニール紐が握られていた。
「パパね、必ず葵は帰ってくると信じてたんだ。葵もパパのことを愛してるもんね」
パパはそう言いながら、私に近づいてきた。
なに……?
何をしようとしてるの?
私は怖くて、逃げ出そうとした。だけど、すくんだ足を動かすことができなかった。それでも一歩引き下がると、今度は腰が抜けてしまい、その場に座り込んだ。
「色々と話が聞きたいけど、まだ診察がたくさん残ってるから、葵は待っててね」
「なんで……わかったの……?」
「ん?」
「ここに来たこと……」
パパはずっと、あの気持ちの悪い笑顔のままだった。
「……パパね、葵が帰ってきたらすぐわかるように、家に人感センサーを取り付けておいたんだ。人を感知したら、パパのスマホに通知がくるんだ」
うそ……
近づいたパパは、私の両手首をビニール紐で縛った。
「……やめてパパ……」
震える声で、そう訴えた。
「お願い……」
パパは私を縛ったあと、そばにあった寝室のドアノブに、くくりつけていた。両手首を拘束された状態でドアノブに固定されたから、私の視界には、自分の腕があった。
「顔色がよくて安心した。でも一応、お薬飲もうね」
私は静かに首を横に振った。
「だめだよ。葵は病気なんだから、ちゃんとお薬を飲まないと」
パパはひと粒の錠剤を私の口の中に押し込んだ。それからすでに用意されていたペットボトルの水を、私の口に流し込んだ。
「それじゃあパパが帰ってくるまで、そこで待っててね」
「……」
「明日はパパ休みだから、たくさん愛し合おうね」
「……」
「……もしかして……もう誰かに体を許したの?」
パパはじとっとした目で、私のことを見た。
“あの目”だ。
私は怖くて何も言えなかった。
「葵」
その声を聞いて、私は首を横に振った。
するとパパは、また気持ち悪い笑顔に戻った。
「そうだよね。葵はパパ以外と、そんなことしないもんね。それじゃあパパ、また病院に戻るけど、おとなしく眠って待っててね」
パパはそう言ってから、家を出て行った。
鍵の閉まる音を確認すると、私はすぐに、ベロの下に隠していた薬を吐き出した。
さっき薬を押し込まれた時に、咄嗟に隠したんだ。薬は今朝ちゃんと飲んでいるから、他には飲んでいけないような気がした。それに……初めて見る薬だったから……。
しばらく口に入れていたから、少し溶け出してしまったかもしれない。
それよりどうしよう……
寝室のドアノブは、下にさげるレバータイプではない。握って回すタイプだ。
とりあえず、私は紐から腕が抜けないか試してみた。
色んな方向に手首を動かし、紐が緩まないかと考えた。
だけど……びくともしなかった。
きっとパパは、ドアノブに紐をぐるぐると巻きつけたんだ。
このままじゃ私、本当に……
パパが元のパパに戻れば……だなんて、そんなの甘い考えだった。今のこの現状で、しっかりと思い知らされた。
パパは……おかしい。
きっともう、元には戻らない。
それに思い出したことがあった。
前にパパは、“何年も、この日を楽しみにしてた”と言っていた。なんでこのことを忘れちゃってたんだろう。
さっきのゾワゾワ感も、あのパパの目も……これらは決して忘れたわけではなかったけど、薫くんと暮らすようになってから、徐々に和らいでいた。
きっと、薫くんの優しさに日々触れていたから、私の考えが甘くなってしまったんだ。
私は……なんてことをしてしまったんだろう……。
涙がとめどなく出てくる。
せっかく、薫くんがあの家にいていいと言ってくれたのに。
薫くんが用意してくれた、お薬が効いていたのに……。
私はまた、手首を捻ったり、引っこ抜いてみたりしようとした。
だめだ……
私はリビングの時計を見てみた。
パパが帰ってくるまで約4時間。
大丈夫。まだ時間はある。
落ち着け……
その時、あるものが目に入った。
私のバッグだ。
少しだけ遠くにある。足を必死に伸ばし、どうにかバッグを引き寄せようとした。
もう少し……あとちょっと……
だめだ。届かない。足がつりそうになり、一旦バッグは諦めた。
他に……他に何か使えるものは……
そうやって、見渡せる限りを見てみたけど、使えそうなものは何もなかった。
私はとりあえず、足で靴下を脱いだ。それからまたバッグに足を伸ばした。
お願い……届いて……。
体と足を限界まで伸ばした。繋がれている手首が痛い。それでも必死にバッグを引き寄せようとした。
あとちょっと……
その時、バッグの取っ手に足の親指が触れた。もうこれ以上は伸びないだろうと思ってた足を、また必死に伸ばすと、親指をまげ、取っ手に引っ掛けた。
よし……これで足をこちらに引いて……
どうにかバッグを、自分の元に引き寄せることはできた。足でバッグの中を探ると、刺繍ポーチを取り出した。
それから左足の親指でポーチを挟み、右足の指でファスナーの引き手を摘もうとした。
だめだ。焦りからか、足が震えて上手く摘めない。何回か挑戦してみたけど、やっぱりだめだった。
今度は右足でポーチを掴み、左足で引き手を摘もうとした。だけどそれもだめだった。
また時計を見てみる。大丈夫。まだ時間はある。
少し休憩をしてから、私はまた左足でポーチを掴み直し、試してみた。
よし。少し開いた。その隙間に親指を入れると、スーッとファスナーをずらしていった。
よかった。開いた。
それからポーチの中に足を入れ、目的のものを探した。
これだ。あった。
私はそれを親指で挟み、ポーチから出した。
糸切りバサミだ。
取り出したのはいいけど……これをどうやって手に掴めばいい……?
右足の指で、糸切りバサミを挟んだまま、少し休んだ。
大丈夫。落ち着いて?何か方法はあるはずだから。薫くんはいつもそう言ってくれてたから。
私が不安になるたびに、もうだめだと思って、弱音を吐くたびに……薫くんは“僕はそう思わない”、“一緒に考えよう?”、“必ず葵ちゃんに出来ることがあるから”……そう言って励ましてくれた。
その時、薫くんの優しい顔が、頭の中に浮かんだ。
少しずつ、自分が落ち着いてきたのを感じた。
薫くん……。
絶対に……
私はあの家に帰るんだ。




