73 クローゼット
翌日。
私は13時過ぎに家を出ると、元の家へと向かった。
ママとの思い出を取りに行くために。
電車に乗り、空いてる席に座ると、バッグから刺繍道具が入っているポーチを取り出した。それから布が張られている丸枠を取り出し見ていた。
ママの刺繍はどんな感じだったかな?
ママ……
いつも優しかったママ。
具合が悪くなると、いつも手を握ってくれたママ。
その手がとても温かくて、ママがそばにいると思うと、安心してぐっすりと眠れていた。
……そういえば……ママからはいつもいい匂いがしていた。
あの香水の匂いじゃない匂い……。
あれは……なんの匂い……?
……。
……あ……
思い出した。
もしかしたら、あれかもしれない。
ハンドクリーム。
確かママは、よくハンドクリームを塗っていた。メーカーなんかはわからない。だけど、どんな見た目だったかは、なんとなく覚えてる。
帰りにドラッグストアに行って、探してみよう。
私にとってのママの匂いは、あの香水ではなくて、ハンドクリームだ。
自分の刺繍を見ていると、そんなことを思い出していた。しばらくすると、それをポーチにしまい、そのポーチもバッグにしまった。
平日のお昼過ぎだからか、車内は静かで、人はまばらだった。
窓の外を流れる景色を見ると、見慣れた景色になっていた。
心臓が1回ドクンと跳ねた。それから次第にバクバクとし始めた。
時間を確認すると、14時を過ぎていた。
大丈夫だよね?
今頃はもう、パパは診察中だ。今日は定休日でもない。家にはいないはずだ。
最寄駅に着き、家へと向かって歩き出す。
あの家を出てから、まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないのに、妙に懐かしく感じた。と、同時に、鼓動が早くなっていくのを感じていた。
病院の前を通らないように、遠回りをして家に向かい、ドアの前まで着くと、すぐには入らずに立ち止まった。
意味があるかわからないけど、そのドアに耳をつけてみた。家の中から音が聞こえるか確認したかった。
たぶん……大丈夫だと思う。
少しだけ震える手で鍵を取り出そうとすると、手を滑らせ鍵を地面に落としてしまった。緊張で手に汗をかいていたからだ。
咄嗟に後ろを振り向く。
大丈夫。誰もいない。
早くなった呼吸を落ち着かせると、鍵を開け、そっとドアを開けた。
人がいる気配はしない。
よかった……。
靴を脱ぎ、忍足でリビングに向かった。
……大丈夫。
それを確認すると、私はすぐに自分の部屋へと向かった。
ドアを開け、中を見てみると、部屋は出て行ったままになっていた。
机の上に置いてきた、手紙はなくなっていた。
久しぶりに見た部屋で思い出したのは、パパのことではなく、薫くんのことだった。
薫くんは一度だけ、この部屋に来たことがある。
ここに座り親子丼を食べ、それからこのベッドで一緒に仮眠とり、起きると二人で座って色々と話したんだ。
一緒に仮眠……だなんて言ったけど、あの時は、私が勝手に、薫くんの布団に潜り込んだんだっけ。
今思うと、私……結構大胆なことをしてたんだな。
ただどんな感じか確かめたかっただけなのに、あのまま眠っちゃうだなんて……。
だけど……今は毎日、当たり前のように一緒に寝ている。
当時の私からしたら、とても考えられないことだ。
こんな時にまで、私の頭の中は薫くんでいっぱいになっていた。
薫くんがこの部屋を、安心できる部屋にしてくれた。
本当に……どこまでも優しい人だ。
あ……思い出に浸っている場合じゃない。
急がないと……
ママが刺繍をしてくれたハンカチなんかは、クローゼットの中にある、半透明の引き出しの収納ケースに入っている。
私はクローゼットを開けると──
愕然とした。
身に覚えの無い服が、ずらりと並んでいた。
なに……これ……
パパが買ったの?
よく見てみると、パパが今まで選んできたようなワンピースがたくさんあった。
次に引き出しに目がいった。
なんで……?
かつて下着を入れていた引き出し。
空にして出て行ったはずなのに……。
その引き出しには、何かが入っているようだった。半透明だからはっきりとはわからない。私はそっと、その引き出しを開けて見た。
そこには──
新品の下着が、綺麗に並べられていた。
何これ……
パパが買ったの……?
その中のひとつを手に取り、タグを確認してみた。
私の前のサイズだ。
まさか私が帰ってくると思って、用意したの?
そう思うと、急に気持ち悪くなった。嗚咽が出る。背中がゾワゾワとする。
早くここを出ないと──
すぐにハンカチ類が入っている引き出しを開けると、ママが刺繍してくれたハンカチやポーチを手に取り、次々とバッグにしまっていった。
早く…
早く……
バッグにしまい終わると、急いで階段を下りた。
そこで私は絶望した。
「おかえり。葵」




