72 行かなきゃ
もうすぐ5月が終わろうとしている。
薫くんが“様子を見たい”と言っていた“3ヶ月”が経とうとしている。
これから……どうなるの?
私は洗い物をしている薫くんの背中に引っ付くようにした。両手とおでこで、薫くんの体温を感じる。こうすることが、日に日に増えていた。
そうするたびに、私は心の中で“好き”だと呟いていた。
今日もそうだ。
薫くんにそっと触れると……。
好き。
そう呟いた。
もちろん心の中で。
「ちょっと待ってね。もうすぐ洗い終わるから」
薫くんも、私からそうされることに慣れていたようだった。
洗い物を終わった薫くんは、私の方に振り返ると、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「お待たせ」
「……うん……」
「……」
静かな時間が流れていた。
「……もうすぐ……ここに来て、3ヶ月になる」
「うん。そうだね」
薫くんはそう言うと、さっきよりも腕に力を入れていた。
「私は……」
「うん」
「これからどうすればいい?」
「葵ちゃんはどうしたい?」
「……」
「……僕は……このまま葵ちゃんには、ここにいてほしい……」
……。
ここにいていいの……?
「葵ちゃんは?どう思ってる?」
でも……いいのかな……。
そう言ってくれるってことは、私のことを“迷惑”だって、思ってないんだよね?
そう思ってもいいんだよね?
私……自惚れてる?
「葵ちゃん?」
いいのかな。
本当に甘えていいのかな……?
私は薫くんのことを力強く抱きしめた。
「ん?どうしたの?葵ちゃんはどうしたい?」
「……たい……」
「ん?」
「ここに……いたい……」
「じゃあそうしよ?」
いいの……?本当に……?
「ね?ここにいて?」
薫くんのその言葉を聞いて、私はさっきよりも抱きしめた。
好き……
もう……この気持ちが爆発してしまいそうだ。
今日もいつも通り薫くんを玄関で見送ると、家事をして、それから刺繍をした。この頃になると、刺繍もなんとなく、様になるようになっていた。
ママの刺繍……見たいな。
ママが刺繍をしてくれたハンカチを、あんなに愛用していたのに、今となってはうろ覚えになっていた。当時の私は、まだ刺繍に興味がなかったから、細部までの記憶がない。ただ私のイニシャルや名前、キャンディやお花などが可愛らしく刺繍されていることしか覚えていなかった。
取りに行こうかな……
いや、行かなきゃ。
だけど怖い……
でもママの刺繍だけは……
あれは、世界でたったひとつだけだから。
パパが診察中なら大丈夫だよね…?
明日にでも行ってみようかな……。
そんなことを考えながら、チクチクと針を進め、刺繍をしていた。
あ、そうだ。ビーズやスパンコールを使った刺繍もしてみよう。
早速、動画でやり方を探してみると、たくさん出てきた。どれもこれも可愛くて、試してみたいものがいっぱいあった。
私はとりあえず、自分の好みなものを再生させ、見よう見まねで手を動かした。
夢中で作業を進めていると、小さい刺繍が出来上がった。
「かわいい……」
まだまだ荒い感じだったけど、ビーズを使ったことで、少し立体的なものが出来上がり、それがとても可愛く見えた。
そうやって自分が作ったものを満足しながら眺めていると、スマホの画面は次の動画を流し始めていた。
ビーズや刺繍でイヤリングを作るもので、私はその動画に釘付けになった。
色々な動画を見続けていると、作ってみたいものがたくさん増えてしまった。
薫くんが帰ってくると、夜ごはんを食べながら今日のことを話した。刺繍のことを。
「ははっ。そっか。それはよかったね。また今度、手芸屋さんに行こうか」
楽しそうにしながら、薫くんはそう言った。
私のことなのに、楽しそうにしている薫くんを見て不思議に思った。
「なんでそんなに楽しそうなの?」
「ん?楽しそうにしてた?僕」
「うん」
「んー、楽しいというよりは、嬉しいと言った方がしっくりくるかな」
「なんで?」
私はおかずにお箸を伸ばし、それを食べながら話を聞いてきた。
「葵ちゃんが楽しそうにしてるから、嬉しいんだ。葵ちゃん、前よりも生き生きとしてるよ?自分でもそう思わない?」
それを聞いて、私は手を止めて薫くんを見た。
薫くんはさっきと変わらず、優しい表情をしていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「それは薫くんのおかげ」
「ふふっ。僕は少し手を差し伸べただけ。助けを求めたのも、あの家を出る決意をしたのも、趣味を見つけたのも、葵ちゃん自身なんだよ?」
そんなふうに言ってくれるだなんて……
私からしたら、全部薫くんのおかげなのに。いつも私に光を与え、導いてくれた。
私は薫くんに、そのままを伝えた。
すると薫くんは目を細めた。
「そんなふうに思ってくれてありがとうね。だけど、全部葵ちゃんが自分で選んだことだから」
そう言う薫くんは、やっぱり優しい表情をしていて、私はその優しさに包み込まれているように感じた。




