70 今が一番……
刺繍にハマり、私は毎日コツコツと練習をしていた。
まだそれで何かを作る段階ではない。ただ100円ショップで買った布に、ひたすら針を通してしていた。
今日も公園で刺繍をし、それから散歩をした。
体調もいいし、天気もいい。
好きな人と一緒にいられるし……私、今が人生で一番幸せなのかも……。
今後のことを考えると怖くなるけど、今はこの幸せだけを噛み締めたい。
最近、薫くんは安定した時間に帰ってくることが増えたからと、夜ごはんを食べたあとに、洗い物をしてくれることが多くなった。
今日もそうだ。
「僕が洗うから座ってて?」
「ありがとう」
最初の頃は、少し押し問答をしていたけど、今では素直に甘えることにしていた。
二人で食器をシンクへ持っていくと、薫くんがスポンジを手に取り、それに洗剤をつけていた。
私はすぐにソファへは向かわず、食器を洗い始めた薫くんの背中を見ていた。すると急に触れたくなってしまった。
薫くんの背中にそっと近づくと、両手で触れ、おでこをくっつけた。
「ん?どうしたの?」
好き。
「……少し、こうしててもいい?」
「いいよ」
薫くんの体温……同じ柔軟剤の香りと、ボディソープの香り……。
私たち、一緒に生活してるんだ。
「なんなら抱きついてもいいよ?ははっ。なんちゃっ──」
私はすぐに抱きついた。
「……何かあったの?」
「ううん。ただこうしたかっただけ」
触れたいだけ。
薫くんは何も言わなかった。
シンクにお皿を置く音。食器が重なる音。そんな音が耳に届いた。次に水がシンクを打ちつける音が聞こえてきた。きっと今、食器の泡を落としている。
洗い物が終わったらしい薫くんは、タオルで手を拭き、こちらを向いた。それから私のことを抱きしめてくれた。
「何か不安なの?」
「ううん」
「本当に?」
「うん」
私は前よりも、もっともっと薫くんのことを好きになっていた。
薫くんとの生活は順調に進み、気がつけば5月になろうとしていた。
体調も、あれから1回も悪くなっていない。
今日は薫くんと、街に来ていた。薫くんが“手芸屋さんに行こう”と誘ってくれたからだ。
私はまだ練習中だから遠慮したんだけど、“見るだけでもいいからさ”と薫くんは言い、連れてきてくれたのだ。
一緒に電車に乗ると、ひとつだけ席が空いていた。
「葵ちゃん、座りな?」
そう言いながら私を座らせようとした。
「ううん。私、元気だから薫くんが座って?いつもお仕事頑張ってるんだから」
「じゃあ……僕の上に座る?」
薫くんはお茶目な顔をしてそう言った。
冗談で言っているのはわかっていたけど、私は恥ずかしくなってしまい、すぐにその席に座った。
「ふふっ」
「いじわる……」
「そう?僕は葵ちゃんに座ってほしかっただけ」
いじわるじゃない。優しいからなんだ。
薫くんは私の前に立ってくれた。
目的地に着くと、手を繋いで早速手芸屋さんへと向かった。
中に入ってみると、布や糸、ビーズや何に使うのか知らないものまでたくさんあった。刺繍糸コーナーを見つけると、私は心を弾ませた。100円ショップでは売っていない色がたくさんあり、一色ずつ選べるのも魅力的だった。
「なんか気に入ったものはあった?」
私は何色かの刺繍糸を手に取り見ていた。
「んー……私の腕じゃ、まだまだ100円ショップのものでいいよ」
「いいじゃん。せっかくだし買っていこうよ。ほら、この色なんか葵ちゃんっぽくて、かわいいよ?」
“葵ちゃんっぽくて、かわいい”……。
それは淡いピンク色だった。薫くんの中の、私をイメージする色は、こんな色なんだ……。
なんだかくすぐったい気持ちになった。
「ビーズとかも買ってみたら?そういう刺繍もあるでしょ?」
確かにある。そういう動画を見た。キラキラしていて、とても可愛いと思ったんだ。
「でも……本当にいいよ。100円ショップのもので」
「いいから」
「んー……」
「葵ちゃんが選ばないなら、僕が選んじゃうよ?」
薫くんは、電車で見せたような、お茶目な顔をまたしていた。
「……それじゃあ、一緒に選んで?」
「いいよ」
色々と手に取り、薫くんは見ていた。
「僕この色好きだな」
薫くんが手に取ったものは、綺麗な青色だった。真っ青ではない。柔らかくて、優しい青色。私もその色が好きだった。
「あとこれも好きだな」
そう言って、次に手に取ったのはエメラルドグリーンだった。
「どうかな?葵ちゃんはこの色好き?」
「うん。どっちも好き」
こんな感じで、二人で刺繍糸を選んでいた。
結局薫くんは、10色ほどの刺繍糸と、6種類のビーズを買ってくれた。その他にも何点か、刺繍関連のものを買ってもらった。
「なくなっちゃったら、また買いに来ればいいからさ」
「こんなにありがとう」
「ううん。僕も嬉しい。葵ちゃん、最近あまり不安になったりしてないでしょ?刺繍に没頭してるから、余計なことを考えなくなったんじゃない?」
それもある。だけど、それだけじゃない。今が幸せだから、それにただただ浸っているだけだ。もしかしたらこんな幸せなこと、もう二度と味わうことが、できなくなるかもしれないから。
このあとは、雑貨屋さんを回ってみたり、お昼になれば、回転寿司でごはんを食べたりした。そのあとは……
「葵ちゃん。僕がいると買いづらいものとかあるんじゃない?」
「買いづらいもの?」
なんだろう。
薫くんは、言葉を詰まらせていた。
「化粧品をゆっくり見たり、その……」
化粧品……確かにそうだな。そういうものは、ゆっくりと見たい。
「……下着……とか」
下着……
「ごめん。また僕、気持ち悪いこと言っちゃったね。必要ないならいいんだ。ただ葵ちゃん、逃げてきたでしょ?だから手持ちが少ないんじゃないかと思って。服はこの前買ったけどさ」
そんなことまで気にしてくれてたんだ。
「せっかくここまで来たんだしさ、今から別行動をして、ひとりで買い物を楽しんできたら?」
「ううん。大丈夫だよ」
「いいから、いいから。これで買い物してきな?それが終わったら、連絡して?」
薫くんはそう言って、私に3万円を手渡してきた。
こんなに……
「いい。大丈夫」
「僕も買い物したいものがあるから。はい、いってらっしゃい。またあとでね」
そう言いながら、薫くんは私の背中をポンと軽く押した。




