68 もしも元に戻ったなら
68 もしも元に戻ったなら
吐いてしまった次の日から、薫くんは一錠だけ薬を変えていた。
「今度はこの組み合わせを試してみて?もしこれを飲んで、何か不調が出たら、我慢せずに必ず教えて?」
そう言われて、その薬を飲み続けて2週間。めまいもなく、体調はとても良かった。
暖かい日も増えてきて、空の青がとても綺麗に見えた。
薫くんは、もうすぐ病院が変わる。
そうなれば、今みたいに不規則な時間に帰ることは減ると言っていた。
今日も薫くんは“遅くなるから、先にごはんを食べててね”と言ってから、仕事へと向かった。
私は家事をし、それが終わるとスーパーへ向かい買い物をした。
本当にいい天気……。
あ、そうだ。
家に帰ると、私は刺繍に必要なものを一式、コンビニ袋に入れバッグに詰め込み、近くの公園に向かった。ベンチに座ると、日光浴をしながら刺繍をした。
なんだかこういうのいいな。
とても気持ちがいい。
今まで家の中にいることが多かったから、青空の下で、こういうふうに過ごすことはなかった。
ここは公園といっても、遊具はなく、緑の多い広場のようなところだ。学校が終われば、小学生たちが集まりそうな感じ。そう思いながら、手を動かし続けた。そうやって夢中で刺繍をしていると……
予想通り、子どもたちが集まって、鬼ごっこなんかをしたりして、遊んでいた。
いいな……。
私はあんな感じで、遊んだ記憶があまりない。
子どもたちの楽しそうな笑い声が、耳に届くと、なんだか私まで心が踊ってしまった。
そのまま刺繍に没頭し、日が傾きかけた頃、家へと帰った。
さっきまでの、子どもたちの声を思い出し、家の静けさをすごく寂しく感じてしまった。
いつもひとりでいるから、慣れているはずなのに。
薫くん……早く帰ってこないかな……。
今日は遅くなるって言ってたから、そんなことはないんだろうけど。
思わずそう思ってしまうほど、私は寂しくなってしまった。
結局、薫くんが帰ってきたのは0時になるちょっと前だった。
「まだ起きてたの?寝ててよかったのに」
抱きつきたい。
「葵ちゃん?」
ぎゅーされたい。
「今ごはん温めるから」
私がキッチンに向かおうとしたら、薫くんに手首を掴まれた。
「なに?今日何かあったの?」
薫くんは、真剣な顔をしていた。
「今日公園で──」
私は今日のことを話した。
「それで?」
「家に帰ってきたら、なんだか寂しくなっちゃって……」
そこまで言うと、薫くんは抱きしめてくれた。
なんか……催促したみたいになっちゃったな。
「……ありがとう」
そう言いながら、私も薫くんのことを抱きしめた。
「ふふっ」
「なに?」
「かわいい」
「……」
「寂しい思いをさせちゃって、ごめんね」
好き……。
「ううん。そんなふうに思わせちゃってごめんなさい」
「もう……また“ごめんなさい”って」
あ……
なんで私は、すぐに謝っちゃうんだろう……。
「葵ちゃん」
「はい」
「僕にそんな気を遣わないで?」
「……でも……」
「“でも”じゃない。僕は仕方なく、葵ちゃんと生活してるわけじゃないんだよ?」
私の体調を見るためだ。
「葵ちゃんとの生活楽しいよ?だからそんなに気を遣わないで?何かあるなら溜め込まないで、ちゃんと話して?」
「はい」
本当にもう……薫くんは、なんでこんなにも温かいんだろう。
このあと薫くんは、シャワーを浴びに行き、私はごはんを温め直した。
気がつけば4月になっていた。
あの家を出て、1ヶ月以上が経っていた。
薫くんは務める病院が変わり、本当に前よりも、安定して帰ってくることが多くなっていた。基本的に土日休み、月に2回ほど当直があるようで、そんな時は平日に休みが振られるようだった。
薫くんが薬を変えてくれた以来、本当に調子が良かった。あの一錠を変えてからだ。あと2ヶ月様子を見たとして、私がこのまま体調がいい日が増えたとして、その後はどうしたらいいんだろう……。
だめだめ。
また不安になってる。
今はそんなこと考えちゃだめ。
とにかく薫くんみたいに、前向きに考えないと。いつだって薫くんは、“一緒に考えよう”と言ってくれる。私に寄り添ってくれる。
いつか……私も薫くんみたいな人になりたい。
薫くんみたいな、温かい人になりたい……。
そんなことを思っていたのに、ふとパパのことが頭をよぎった。
私は簡単なお昼ごはんを食べながら、スマホでパパの病院を調べた。口コミを見てみると、前と変わらずいい評判だった。
よかった……ちゃんと“先生”を続けているんだ。
私は頭のどこかで、“最悪”なことも考え、不安になっていた。だけど、この口コミを見る限り、パパは無事なようだ。
あんなに逃げたかったのに、なんで心配になっちゃうんだろう……。
あの違和感や嫌悪感なんかも、しっかりと覚えている。それと同時に優しいパパの顔、懸命に私のことを看病してくれる姿、励ます言葉……そんなパパのことも思い出してしまう。
パパの妻にはなれない。なりたくない。
だけど……
心のどこかで、パパが前のパパに戻ることを願ってしまう。
ママが亡くなってしまって、パパはずっと寂しくて、それで成長した私にママを重ねてしまっただけのこと。ただ寂しくて、あんなふうになってしまったのかもしれない。
いつかそれに気がついて、元のパパに戻ってくれたら……。
夜になり、薫くんが帰ってきた。
夜ごはんを食べる時に、私は今日思ったことを話してみた。パパのことを。
すると、薫くんは険しい顔をした。
「……確かに葵ちゃんには、優しい“パパ”との思い出があると思う。僕から見ても、院長は葵ちゃんに優しくしてたと思うよ?でもね、葵ちゃんにこうやってはっきりと言うのは心苦しいんだけど、親が娘に対して、あんな感情を持つのは普通のことじゃない。だから葵ちゃんも、僕に助けを求めてきたんでしょ?」
確かにそう……。
確かにそうなんだけど……いつかそれが間違いだと気づいてもらえたらって……そう思ってしまった。
「だけどいつかパパが──」
「葵ちゃん」
薫くんは、私の言葉を遮るかのように名前を呼ぶと、そのあとは何も言わなかった。
時間が……止まったように感じた。
薫くんは視線を落としたまま、黙っていた。
その顔は、今まで見たことがないくらい苦しそうだった。
「……葵ちゃんが……院長のところに戻りたいなら、そうすればいいよ」
薫くんはそう言うと、まだ食べ終わってもいないのにお箸を置き、外へ出て行ってしまった。




