67 ごめんなさい
私はその日、一日中気持ちが悪かった。
めまいを起こしたのはお昼過ぎ。薫くんはずっと、私の看病をしてくれていた。
「葵ちゃん。みかんと桃、どっち食べたい?」
心配そうな薫くんが、そう聞いてきた。
「……どっちもいらない」
「だめだよ。何か食べないと」
「食べたくない」
「……こういう時、お父さんはどうしてたの?」
「……点滴……病院に点滴を取りに行ってた」
私がそう言うと、薫くんは怒ったような表情をしていた。
なんで……。
「ちょっと待ってて。今買い物してくるから」
そう言う薫くんは、やっぱり怒っているように見えた。
「……なんで怒ってるの」
私は不安になりそう聞いた。
でも……私がそう言うと、薫くんはふっと柔らかい表情になった。
「怒ってないよ。少し考え事をしてただけ。ごめんね?不安にさせちゃった?」
「……どこにも行かないで」
さっきは“部屋から出て行って”って言ったのに……私……矛盾したことを言ってる……。
「行かないよ」
「……でも買い物に行くって……」
「すぐに帰るから」
「……すぐ……?」
「うん。このままじゃ葵ちゃん、脱水症状を起こしちゃう。僕は点滴を用意することができないから、その代わりに経口補水液を用意しないと……」
「……わかった」
私は薫くんの服を掴んでいた手を放した。
「すぐに帰るから」
「うん」
薫くんが家を出ていく音を確認すると、私はすぐにゴミ箱に吐いた。それからそのゴミ箱を手にすると、すぐに戻したものをトイレに流した。
……目の前がクラクラとする……。
私はトイレの前に座り込んだ。
こんなんで本当に、自立なんてできるのかな……。
私は情けなくて、涙が出てきてしまった。
もう……泣きたくないのに……。
すると薫くんが帰ってきた。
「葵ちゃんっ」
薫くんは、私のそばに駆け寄りしゃがむと、座ったまま、すぐに私を抱きかかえた。
「飲んで」
買ってきた経口補水液のペットボトルを、私の口元に寄せ、飲ませてくれた。
だけど、戻しそうになり、私はトイレに這って行き、便器に顔を向けた。
薫くんは背中を撫でてくれた。
「大丈夫だから……ひとりにして……」
私がそう言っても、薫くんはずっと私の背中を撫で続けていた。
もう吐くのもなくなると、薫くんは私のことを立ち上がらせてくれた。すぐに口をすすぎ、口元も洗った。
めまいが酷い……。
薫くんは私を抱き上げると、ベッドまで運んでくれた。それからまた、経口補水液を私に飲ませると、薫くんは手を握ってくれた。その表情は悲しそうにしていた。
「……少しは楽になった?」
「……うん」
「今日は何も考えずに、ゆっくり休んでね」
「ごめんなさい……」
私がそう呟くと、薫くんはさっきよりも悲しそうな顔をした。
「……具合が悪くなるたびに、いつもそうやって謝ってたの?」
「……」
「何も心配することはないよ?自分を責めないで?」
こんなふうに、心配をかけたくなかった。迷惑かけたくなかった。
私は自分の顔を隠すように、布団を頭まで被った。
「葵ちゃん……」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい……。
目をつむっていても、目が回っている感覚だった。
急にこんな酷いのがくるだなんて……。
最近、ずっと調子が良かったのに。
「葵ちゃん、頭まで布団を被ったら、息苦しくなっちゃうでしょ?顔を出して」
「……」
「布団、めくるからね?」
薫くんはそう言いながら、そっと布団をめくった。
「……泣かないで?大丈夫だから」
「……」
「次に起きたら、少し楽になってるだろうから、みかんか桃の缶詰を食べようか」
「……うん」
薫くんの表情はさっきと違い、優しいものになっていた。
「ひとりで寝るの怖い?」
寂しいけど、これ以上は迷惑かけられない。
「……大丈夫」
「ちょっと待ってて」
寝室から出ていった薫くんは、すぐに戻ってきて、枕の位置を調整し、それを背もたれにして、寝ている私の隣に座った。薫くんはノートPCや医療関係の教科書のようなものを持ってきていた。
「なるべく静かにするから」
「ううん。なにか音がする方が安心する」
「本当?」
「うん」
私は目をつむり、ページをめくる音や、何かを書き込む音を聞きながら眠りについた。
次に目が覚めると、夕方だった。
目の前には薫くんがいて、私は抱き寄せられていた。
寝起きで頭がぼーっとする……。
少し上を向いてみると、薫くんは眠っていた。私はそっと、薫くんの体に腕を回した。
めまいはだいぶ治っていた。
薫くんの体温が心地いい。
「……起きた?」
「……うん」
「どう?まだ気持ち悪い?」
「ううん」
「お腹は?空いてる?」
私は腕に力を入れ、薫くんのことをぎゅっと抱きしめた。
「どうしたの?」
「……ありがとう」
「うん」
薫くんも、抱きしめ返してくれた。
「それで、お腹は空いてる?」
「うん」
「缶詰は?食べられそう?」
雑炊とかでも食べられそうだな。
「うん。自分で雑炊作るから大丈夫」
「玉子雑炊とかだったら、僕にも作れそうだったから、ちょっと挑戦してみるよ」
「……え?」
「実は葵ちゃんが寝たあと、雑炊のレシピを色々と見てたんだ。幸い、葵ちゃんが調味料を揃えてくれてたし、食材もあるから、僕が作ってみるよ」
「そこまでしなくていいよ?自分で作れるから。もうめまいもしないし」
「作らせて?僕も料理を覚えたいから」
何の音もしない静かな部屋の中に、優しい薫くんの声と、優しい言葉が響いた。
その時、この前買い物に行った時に聞いた、女の子たちの会話を思い出した。
“紳士的で優しい彼氏”
彼氏ではないけど、本当にそうだと思った。
今まで私の身近にいた男性は、パパしかいなかった。小さい頃からパパはずっと優しくて、いつの間にか、それを普通だと思っていた。
だけど、世の中には子どもに関心を持たず、冷たく接する父親がいることを、少し大きくなった頃に知った。
自分の子どもに対して、そんな態度を取る父親がいる中、薫くんは他人の私にもこんなに優しい。
世の中の男性が、どんな感じかなんて知らないけど、あの子たちがそう言うってことは、薫くんみたいな人は、あまりいないのかもしれない。
「僕が作るの心配?」
「ううん。そんなことないよ?」
「じゃあ、もう少ししたら作ってみるね」
「うん。ありがとう」
甘えちゃっても……いいよね?




