66 検査結果
ある日の昼下がり、家事をひと通り終えると、100円ショップで買った刺繍糸や丸枠、布をテーブルの上に広げた。スマホで刺繍のやり方の動画を探し、見よう見まねで試してみた。
これが意外にもよかった。作業に集中することができ、余計なことを考えずに済んだ。
この日はとにかく、何かを作るというよりは、練習をたくさんした。
「……こうすると……お花の花びらになるのか」
「文字は……こうするのか……」
独り言をぶつぶつと呟いては、私は手を動かしていた。
ママの刺繍をちゃんと見たいな……。
そんなことを思いながら、ふと時間を確認すると、15時になろうとしていた。
もうこんなに時間が経ってたんだ……。
薫くんの言う通り、何事も試してみるもんだな。
私は立ち上がると、洗濯物が乾いているか確認した。
よし、乾いてる。
それを取り込むと全て畳み、薫くんの分はソファに置いておいた。
薫くん……今日は早く帰れるって言ってたけど、どうだろう。そう言っていても、帰りが遅くなることも多かった。
今日はガパオライスにしようかな。薫くん、好きそうだったし。
……パパはまだ……繋がらない電話番号に、電話をかけ続けているのだろうか……。
届かないメッセージを……送り続けているのだろうか……。
あ……確か、アカウントの削除をしたら、もうメッセージは送れなくなるんだっけ?なんかでそんなようなことを見た気がする。相手がいません的なメッセージが表示されるんだっけ?
だとしたら、パパはそれを見て、どう思ったかな……。
ううん。考えちゃだめ。
薫くんが言ってくれた言葉を大切にしないと。
“こうやって少しずつ進んでいこう?”
そうしていかないと……。
私はまた、動画を見ながら刺繍を始めた。
日が沈む頃、私はキッチンに立ち、明日のおにぎりの具を考えていた。
明日は天むすと、しらすにしようかな。
その下ごしらえをしたあと、夜ごはんの支度をし始めた。
それも終わると、今度はドラマを見ながら、薫くんの帰りを待っていた。
その時……スマホが鳴った。電話だ。薫くんからだった。
『もう帰るよ』
「本当に早かったね」
『うん。今日は割と暇だったんだ』
「……待ってるね」
『急いで帰るから』
“急いで帰るから”……。
私は胸元に手を当てた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
「気をつけて帰ってきてね」
『ふふっ。ちゃんと気をつけて帰るから、待っててね』
そんな薫くんの声を聞きいたら、薫くんが目を細めた表情が頭の中に浮かんだ。あの……温かくて優しい笑顔……。
私は胸を躍らせながら、キッチンへと立った。
「え?ガパオだ……」
帰ってきた薫くんは、テーブルの上を見ると、目を丸くしながらそう言っていた。
「薫くんが前に食べたそうにしてたから、好きなのかと思って」
「家で食べられるんだ……」
「お店のとは味が違うと思うけど…」
薫くんは両手を合わせてから、スプーンを手に持ち、早速食べ始めた。
「んーっ、美味しいっ」
「本当?」
「本当っ。葵ちゃんも食べてごらん?」
私は味見をしてるから、もうどんな味なのかは知っている。だけど、薫くんに言われるがままに食べてみた。
「ね?美味しいでしょ?」
私が作ったのに、薫くんは自信満々にそう言っているのを見て、つい笑ってしまった。
「ふふっ」
「え?なになに?」
「ううん。よかった。美味しいって思ってもらえて」
「だって本当に美味しいから。今度これ、おにぎりにできる?」
「……できるかもしれないけど、脂でホロホロになって、食べづらいかもよ?」
「それでもいいよ。気をつけて食べるから」
そんな感じで、和やかな時間だったのに──
「検査結果が出たよ」
そのひと言で、体に力が入った。
私は口に運ぼうとしたスプーンを、お皿に置いた。
「……どうだった?」
「……やっぱり……葵ちゃんのめまいの原因は不明だった」
それじゃあ、解決策はないってこと?私は一生……この“めまい”と付き合っていかないといけないの……?
「ありがとう。検査をしてくれて」
私は両膝を抱え、俯きながらそう言った。
「……葵ちゃん、ここに来てからのことを思い出して?」
「え……?」
「最近ずっと、調子良いよね?」
確かに……。
「薬を変えてから、症状が落ち着いてると思わない?」
本当だ……。
今まではしょっちゅうめまいを起こしていたのに、ここ最近は全くない。
「すごい……」
「ふふっ」
「薫くん、本当にすごいよっ」
「たまたまだよ」
“たまたま”でも何でも、本当にすごい。
私……薫くんが用意してくれた薬で本当に……。
完治はしないのかもしれない。
だけど、これを飲み続けていれば、あの症状は出ないのかもしれない。
と……思ってたのに……
薫くんが休みの日、私はめまいを起こし、今にも吐きそうになっていた。
「大丈夫?吐きたいならここに吐いて?」
ベッドに横たわる私のそばに、薫くんはゴミ箱にコンビニ袋をセットして、心配そうに私を見ていた。
「大丈夫だから、部屋から出てって」
吐いているところを、薫くんに見られたくなくて、私はそう言った。
「それはできない。戻したものが、気管に入ったりしたら大変だから」
……そうだった。確かパパもそう言っていた。だから私は、パパと寝るようになったんだ。
薫くんはずっと心配そうな顔をしながら、私の背中をさすっていた。
「ごめんなさい……」
せっかくの休みなのに……。
「大丈夫だよ。吐きたいなら吐いちゃいなね?」
私はその言葉を聞いて、ゴミ箱の中に顔を突っ込んだ。




