65 もう二度と……
お昼になり、二人でそのビルに入っている飲食店のフロアに移動をすると、どのお店にするか悩んでいた。
「葵ちゃんは何か食べたいものある?」
「何でもいいよ。薫くんは?なんの気分?」
「んー……牛タン屋か、あそこのガパオがあるお店か、あそこの洋食屋さんかな」
薫くん、ガパオ好きなんだ。それなら作れるから、今度お家で作ろうかな。でも今食べたいのかな?どうしよう。
「葵ちゃんは?今言った中で、食べたいものあった?別にそれ以外のお店でもいいからね?」
「そんなに気を遣わないで?」
「ん?そんなつもりはないよ?僕はいつも葵ちゃんの美味しい手料理を食べてるから、外に出た時くらいは、葵ちゃんが好きなものを食べて欲しいって思っただけ」
そんなふうに考えてくれるんだ。
嬉しいな。
そしたら……牛タンとかはお家では食べないから、そこにしようかな。薫くんも1番最初に言ってたし。
「牛タン屋さんがいいな」
「本当?僕に合わせてるわけじゃない?」
「うん。さっきメニューを見た時に、タンシチューがあるのが見えたから、それが食べたいなって」
「わかった。じゃあ、あの店に並ぼうか」
薫くんは並びながらメニューを選んでいた。
「んー、僕は上タン焼きにしよっと。葵ちゃんも少し食べるでしょ?」
「うん。私の分も分けるね」
「ふふっ。僕たちいつもシェアしてるね」
それはいつも、薫くんが私に分けてくれるから。
二人で話しながら待っていると、薫くんが私の首元を見ていた。
「……どうしたの?」
「そのネックレス、本当に葵ちゃんに似合ってる」
私はネックレスを確認するかのように、指先でそっと触れた。
これは……誕生日プレゼントとして、薫くんからもらったものだ。
「着けてくれてありがとね」
「私の方こそありがとうだよ。ずっと大事にする」
私がそう言うと、薫くんは柔らかく笑った。
順番がきて、席に案内されると、私たちはすぐに注文をした。次に何をしようかと二人で話していると、料理が届き、お互いに分け合った。
ごはんを食べ終わると、また色々なお店を見て回った。薫くんも服を買ったり、前のようにクレーンゲームをしたり、カフェで休憩したり……何をしていても楽しかった。
「葵ちゃんは、何か趣味はある?」
趣味……は特にないな。
ママは刺繍が好きで、よくしていたのを覚えている。
あ……私は大事なものを家に忘れてきてしまった。
ママが刺繍してくれたハンカチ……それから巾着や小さいトートバッグ……。
何で忘れてきちゃったんだろう。世界でたったひとつのものなのに。
さすがに……取りに行けないよね。
あの時は色々と焦っていたから、頭からすっぽりと抜けてしまったんだ。お仏壇に飾ってある、ママの写真はスマホで撮ったのに…。
「どうしたの?」
「あ、ううん。私は特にないかな。でもね、ママは刺繍が好きで、よくしてたんだ」
「おっ、いいじゃん、刺繍。葵ちゃんもやってみたら?」
「んー……どうだろうな。ママみたいに器用じゃないし」
「とりあえずさ、100円ショップで必要なものを揃えてみてやってみなよ。それで葵ちゃんに合ってるようなら、今度手芸屋さんに行って、少しずつ色々と揃えよう?」
「続くかどうかもわからないのに」
「別にそれでもいいじゃん。やってみることに意味があるんだよ?」
“やってみることに意味がある”……。
確かにそうだ。何もせずに諦めてばかりいたら、何も始まらない。
薫くんはいつも、私の背中を押してくれる。
私たちはこのあと、100円ショップに行くと、刺繍に必要なものをいくつか購入した。
夜ごはんも外で済まし、家に帰ると、薫くんはすぐに口を開いた。
「葵ちゃん、僕にスマホの中を見られるのは嫌?」
「なんで?」
「今日SIMカードを買ったから、それを早速入れ替えたいんだけど、メッセージアプリで、お父さんをブロック削除しておきたいんだ。葵ちゃん、お父さんから、どのくらい連絡がきてるとか見るの嫌でしょ?」
確かに……見たくない……。
どれくらいのメッセージや着信がきているかはわからない。
もしかしたら想像より少ないかもしれない。
逆もあるかもしれない。
だったら……
「消して?」
「え?」
「アカウント削除して?」
「引き継げるけど、いいの?」
「うん。どうせ友達はいないし、新しい番号でアカウントを作り直したい。お願いしてもいい?」
私はそう言いながら、スマホを薫くんに手渡した。
薫くんはソファに座ると、電源を立ち上げ、操作し始めた。
私は床に座り、膝を抱えていた。
すると、スマホが震える音が耳に届いた。
驚いて薫くんのことを見る。
薫くんは、眉間に皺を寄せていた。
……パパ……?
私の視線に気がついた薫くんは、優しく微笑んだ。
「葵ちゃんは何も心配することはないよ」
家を出てから3週間は経っているのに……。
「……パパ?」
「ん?大丈夫だよ。気にしないで?」
薫くんは教えてくれなかった。
しばらくすると、SIMカードを入れ替えていた。
「はい。新しくメッセージアプリをダウンロードしておいたから、アカウントを作り直して?」
そう言いながら、薫くんはスマホを手渡してきた。
これでもう、本当にパパとは連絡が取れないんだ。
パパが知らない電話番号。
パパが知らないアカウント……。
「あ、ついでに、僕が入ってる動画配信サービスのアプリも入れておいたから、そのスマホでドラマとか見られるよ」
私はそのアプリを立ち上げてみた。
本当だ。薫くんのアカウントに繋がった。
「ありがとう」
こんなことまでしてくれるだなんて……。
私はまた、メッセージアプリに戻ると、色々と設定をしていた。
これで本当に、もう戻れない。
その時……
──大好きだった頃の、パパの笑顔が頭の中に浮かんだ。
なんでこんな時に……。
急に涙が込み上げ、私は咄嗟に上を向いた。
もう戻らないって決めたのに。
「葵ちゃん、また一歩進めたね。こうやって少しずつ進んでいこう?」
薫くんのその言葉がとても温かくて、私はとうとう泣いてしまった。




