55 温かい
ソファの前に座り、薫くんが買ってきてくれたお弁当を、テーブルの上に用意すると二人で食べ始めた。
「今後のことなんだけどさ、僕ね、2〜3ヶ月、葵ちゃんの体調の変化を見たいんだ。もちろん今すぐにでもシェルターに行きたいんだったら、一緒に良さそうな所を探す。だけどね?もし葵ちゃんがここにいてもいいと思うなら、そうさせてくれないかな?」
体調の変化……。
私はベッドの上で、洗面器に吐いたことや、床に吐いてしまったことを思い出した。そんな姿、薫くんに見られたくない。
「やっぱり嫌?僕と生活するのは」
テレビもつけていない部屋は、しんとして静かだった。だけど、さっき私がひとりでいた時に感じていた静けさとは違い、寂しいものではなかった。
「薫くんのことが嫌なわけじゃない」
「それなら何が嫌なの?」
「……食事中にごめん。戻したりしてるところを見られたくないの。私、今まで床とかに……」
「葵ちゃん」
薫くんは、私の顔を覗き込んできた。
「はい」
「僕の職業は?」
「……お医者さん」
「そう。僕はそんなの、別になんとも思わないよ?」
私が薫くんのことをなんとも思っていなかったら、ここまで嫌だとは思わなかったのかもしれないけど……好きな人に、あんな姿を見られたくない。
「……恥ずかしいの」
「……」
薫くんは何か考え込んでいた。
「僕ね、小学生の頃、母さんと外を歩いてる時に、少し遠くに白猫がいるのに気が付いたの」
え……?
「だからそーっと近づいてみたら、それ、コンビニ袋だった」
何の話?
「それからね、高校の時、友達数人とカラオケに行ったりしてたんだけど、ある日、一番仲がいいやつから“お前、音痴だな”って言われた。僕はね、自分ではそう思ってなかったの。だから今まで、みんなの前で気持ちよく歌ってたから、友達にそう言われた時に、すごく恥ずかしくなった」
「……」
私の顔はたぶん、“ポカン”としているだろう。
薫くんはそんな私の顔を見て、にこりと笑った。
「僕の恥ずかしい過去を、もう葵ちゃんは知っちゃったから、僕の前で戻すことくらい、なんてことないでしょ?」
あ……
私のために、今薫くんはこんな話をしてるんだ。
私が……薫くんの目の前で戻すのが恥ずかしいって言ったから……。
「それに、具合が悪くてそうなってんだから、仕方がないことなんだよ?だからそんなこと気にしたらだめ」
「うん。ありがとう」
「それからねぇ、あれも高校生の時だったかな」
薫くんはそう話を切り出すと、また過去の恥ずかしかったエピソードをいくつか教えてくれた。
「ふふっ。もういい。もういいよ。なんだか私まで恥ずかしくなってきちゃった」
私がそう言うと、薫くんは優しく笑った。
「やっと笑った」
「……」
「ずっと不安だったでしょ?」
薫くんは、さらに優しい顔をした。
私は頷いて返事をした。
「昨日も今日も、ずっと不安で、怖かったんじゃない?」
それにも頷いた。
「もう大丈夫だから」
薫くんは、今までに何度も私に“大丈夫”だと言ってくれた。私はその言葉を聞くたびに、心が軽くなった。
「ははっ。夢中になって話してたら、お弁当冷めちゃったね。早く食べよう?」
「うん」
そうやって、二人で冷めたお弁当を食べた。
冷めていたけど、とても美味しかった。私には温かく感じた。
食べ終わると、薫くんは私をシャワーに促した。“お先にどうぞ”と言ったけど、薫くんは譲らなかった。
私は促されるままに、シャワーを浴びた。
自分の家以外でシャワーを浴びるのは初めてだったから、少し緊張した。
さっき……ちゃんと返事をしなかったけど、この流れって、2〜3ヶ月はこのまま薫くんと生活するってことなんだよね……?
うそ……
どうしよう……。
薫くんと、一緒に住むの?
私は急に、意識してしまった。
パパ以外の男の人と、一緒に暮らすだなんて……。
シャワーを浴び終えると、薫くんは入れ替わるように浴室へと向かった。
明日から、どう過ごせばいいんだろう。教科書なんかは全て置いてきてしまった。スマホも使えないし……勝手に家事をしてしまったら、薫くんは気を悪くしちゃうかな……。
シャワーを浴び終えた薫くんは戻ってくると、デスクの引き出しから何かを取り出し、私に手渡した。
「これ、僕が前に使ってたスマホ。SIMカードは入ってないけど、WiFi環境下なら使えるから、しばらくはこれを使って?」
薫くんはそう言いながら、ソファに座る私の隣に座った。
「初期化済みだから、葵ちゃんの使いたいように使っていいよ」
薫くんからは、私がさっき使わせてもらったシャンプーと同じ香りがした。
「これ。このアプリ。これで僕とやりとりができるから」
私が握るスマホを、薫くんは操作しながら説明してくれた。
「この画面でメッセージのやり取りができて、ここのボタンで通話ができるから」
「……これ、借りていいの?」
「やっぱり連絡が取れないのは不便だし、心配だからね。しばらくの間はこれで我慢して?それで今度、僕が休みの時に、新しいSIMカードを買いに行こう?そうすれば、今まで葵ちゃんが使ってたスマホも使えるから」
そんなことまで考えてくれてたんだ……。
「ありがとう」
「僕がそうしたかったから。あと、今後のことはまた明日決めよう?もう時間も遅いし、葵ちゃん、昨日からずっと緊張が続いてたんじゃない?疲れてるでしょ?」
そう……かもしれない。
「今日はもうゆっくり休んで?明日もゆっくりしてな?」
「……教科書とかは置いてきちゃったの」
「ん?」
「何をして過ごせば……」
「ははっ。明日くらい、別になにもしなくていいじゃん」
「……掃除とか、洗濯をしてもいい?」
「本当に何もしなくてもいいのに」
「でも……」
薫くんは、私の頭を撫でた。
その時、今度は薫くんからボディソープの香りが鼻に届いた。
「僕ね、ほとんど自炊しないの。苦手なんだ、料理が。だから、最低限の調理器具しかないんだけど、夜ごはんを作ってくれない?」
「……わかった」
「今日渡したお金で、食材を買ってきてくれる?近くに100円ショップもあるから、必要な調理器具を買い足してもいいし、今度一緒に、ホームセンターに買いに行ってもいいし」
「うん。わかった。ごはん作って待ってる」
「ありがとう。帰る楽しみができたよ」
なんて穏やかな時間なんだろう。
薫くんは……全てが温かい……。




