54 私の光
タクシーを降りると、私は薫くんから教えられたマンションに向かった。
ここでいいんだよね……?
私は中に入り、薫くんに言われた通りにすると、エントランスのドアが開いた。
緊張する……。
エレベーターに乗り込むとボタンを押し、到着するのを待った。ドアが開くと、薫くんの部屋番号を探した。
えっと……あ、あった。
鍵を差し込み回してみると、ちゃんと開いた。
よかった……。何度も番号を確認したけど、間違えていたらどうしようと、少し不安だった。
「……お邪魔します……」
誰もいないことはわかっていたけど、一応そう言っておいた。
中に入ると、薫くんらしいシンプルな部屋だった。こんなふうに誰かの家に来るのはいつぶりだろう……。小学校の2年生ぶりかな。確か友達の家で、一緒にゲームをした時だ。
荷物を置き、失礼だと思いながらも、部屋の中をじっくりと見てしまった。
あ、薫くんにメッセージを送らないと……。
送信し終えると、私はスマホの電源を切り、また部屋の中を見ていた。
1LDKっていうのかな?
リビングにはテレビやローテーブル、ソファ、それからデスクとイスが配置されていた。キッチンはカウンターキッチン。カウンターにはハイチェアが一脚置かれていた。
デスクにはノートパソコンと……薫くんとお揃いの香水瓶が置かれていた。
それに……あの貝殻も……。
前に薫くんと海に行った時に、砂浜で拾った綺麗な貝殻……。
それを見た時、胸がじんわりと温かくなり、それと同時にくすぐったくもなった。
隣の部屋は寝室だ。開け放たれたドアの向こうに、ベッドがあるのが見えた。
ここが……薫くんのお家なんだ……。
初めて男の人の部屋に入った。
あ、そうだ。タクシーに乗る前、薫くんが1万円を手渡してくれたんだ。
“家の近くにコンビニもドラッグストアもあるから、必要なものはこれで買って?歯ブラシとか、シャンプーとか。あと、食材とか僕の家にないから、お腹が空いたら何か買って、ちゃんと食べるんだよ?”
そう言ってくれた。それから、夜ごはんも薫くんが買ってくると言っていた。
私はソファに座ると、ひと息ついた。
夜……家に帰ったら、パパどう思うかな……。
心配……する?それとも怒る?
前までの私だったら“パパは心配する”。考えはこの一択だったけど、あのパパを知ってしまった今では、パパがどんな反応をするのかが、わからなかった。
……パパのことを考えるのはやめよう。これからのことを考えないと。
シェルターのことを調べたかったけど、今はスマホの電源を落としている。
それに薬。私が飲んでいるのはドラッグストアでも買えるのかな?いや……買えるわけないか。病院は?どうすればいいの?それに診察代……。
冷静になってみると、不安なことしか頭に浮かばなかった。
やっぱり私は、とんでもないことをしでかしちゃったのかな……。
だけどパパの妻になるだなんて、そんなことは絶対に嫌だ。
ぬいぐるみを抱いたまま、ソファに脚を上げた。こうやって縮こまってると、少しだけ安心する。ぬいぐるみは胸元のままに、今度は膝を抱えた。
どうしよう……。
どうやって生きていこう……。
私はまともに働けないと、パパは言っていたし……。
こんな感じで、私の頭の中は不安だらけになった。薫くんは、私には未来があると言ってくれたけど、そんな未来は想像できなかった。
薫くん……
買い物に行こうと思っていたけど、そんな気分になれず、私はずっと考え事をしていた。
気がつけば日が傾き、窓の外の景色は、夕焼けでオレンジ色に染められていた。
早く買い物に行かないと。日が落ちればもっと寒くなる。
だけど私は結局、動くことができなかった。
日はすぐに沈み、部屋が真っ暗になってしまった。明るいうちに確認していた、テーブルに置かれた照明のリモコンを、手探りで探すと電気をつけた。
しばらくまた考え込んでいると、ふと壁にかけてある時計が目に入った。
19時すぎ……
パパがもうすぐ帰ってくる……。
私はあの家にいないのに、心臓がドキドキと波打った。
パパは……あの手紙を読んで……服が減ったクローゼットの中を見て、どう思うんだろう……。
きっと悲しむ……。
ママも死んじゃって、私までいなくなったら……
だけどここで戻ったら、私は一生あの家に……?
どちらを考えても、胸が苦しくなった。
しばらくしてから、また時計を確認した。
19時40分。
パパはいつも、だいたいこの時間に帰ってくる。
私はスマホを手にした。
今、電源を入れれば、パパからの着信が沢山入ってきてるかもしれない。
怖い……。
胸が苦しい。
気がつけば、また時間が経っていた。
すると、玄関の方で鍵が開く音に続いて、こちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
「なんでエアコンつけてないの?寒かったでしょ?いいんだよ?暖房つけて」
薫くんは心配そうな顔をしながら、アウターを脱いでいた。それから、「ちょっと待っててね」と言い、洗面所へと向かった。たぶん、手を洗っているんだろう。
すぐに戻ってくると、薫くんは私の隣に座り、手を握った。
「ほら。手冷たい」
そう言いながらエアコンのリモコンに手を伸ばすと、暖房をつけてくれた。
「買い物は?行けた?」
私は首を左右に振った。
「もしかして、お昼に食べたゼリー以降は、何も食べてないの?」
今度は頷いて返事をした。
「もう夜の9時だよ?お腹空いたでしょ?お弁当買ってきたから、一緒に食べよう?」
私はそこで、泣き出してしまった。
「……今頃パパは……」
薫くんは横から私を抱きしめてくれた。
「大丈夫。葵ちゃんは正しい判断をした。今はただ、自分のことだけを考えて?」
「それも考えた。だけど……私は働けない」
「それも大丈夫。僕も一緒に考えるから」
「……でもパパは、私はまともに働けないって……」
「僕はそう思わない。必ず何か、葵ちゃんにできることがあるから。僕を信じて?」
薫くんにそう言われると、やっぱり私の心は、少しずつほぐれていく……。
さっきまで、不安でいっぱいだったのに、薫くんの優しい声と、体温と、前向きな言葉が、また私に光を見せてくれた。




