52 準備
あんな長文を送ったのに、薫くんからの返事はすぐにきた。
『僕に助けを求めてきたってことは、その家から逃げ出したいってことであってる?』
パパの本心があれなら……私はここから離れたい。パパと深い関係になるだなんて、とてもじゃないけど考えられない。
『うん』
『院長には何もされてない?』
『うん』
『葵ちゃん、今体調はどう?』
よくない……。
『気持ち悪い。でも、いつものめまいからくるものじゃない』
『それはきっと、精神的なものからくる体調不良だね?』
そうなのかも。
『たぶん』
『大丈夫だよ。何度も言うけど、僕がいるからね?』
『どうすればいいかわからない』
『もう二度と、その家に戻らない覚悟はある?』
そう言われたら、少しだけ怯んでしまった。
もう……ママにお線香をあげられないの……?
そうやって考えていると、追加でメッセージがきた。
『葵ちゃん。不安な気持ちはわかるよ?慣れ親しんだ家を離れるのは辛いよね?お母さんとの思い出なんかもきっとあるよね?でもね?その家にいたらダメだ。葵ちゃんの心がそれを拒否してるんだから』
私の心が……
『葵ちゃんには未来がある。それを潰すようなことはしないで欲しい』
未来が……あるの……?
本当に……?
その時、スリッパの足音が聞こえてきた。どうやらパパは、食べ終わったものを下げているようだ。私はまた眠ったふりをした。
それからまた足音が聞こえ、ソファに座る音が聞こえてきた。
『怖いけど頑張る』
私はそう返した。
『うん。よく言えたね。だったら僕が力になるから』
薫くんからは続けてメッセージが送られてきていた。
『葵ちゃんには、少し無理をさせちゃうかもしれないけど、今から僕が言うことをして欲しい』
なんだろう……。
そう思っていると、次々と短いメッセージが届いた。
・明日、院長が仕事に行ったら、すぐに必要な荷物をまとめること(衣服類、葵ちゃんが大切にしている物、安心する物)
・置いていくもの。クレジットカード、院長のことを思い出してしまうもの
・明日は11時30分に、僕が手配したタクシーに乗り、僕の病院に向かうこと
・置き手紙を書くこと
・家を出る前に、スマホの設定で“スマホを探す”をオフにすること
内容はそんな感じだった。
『スマホの設定がわからない』
『大丈夫。僕がやり方を説明するから』
『薬がないと不安』
『それも大丈夫。僕が用意するから』
本当に上手くいくの?
その時、パパがまた立ち上がる音がした。
まだ寝ないよね?
私は咄嗟に、また寝たふりをした。
大丈夫。トイレに行っただけだ。パパは戻ってくると、またソファに座ったようだった。
スマホの画面を確認すると、最後に『僕を信じて』というメッセージが届いていた。
薫くん……。
私はスマホを胸に押し当てた。
それからも、少しやり取りをしたあと、お互いに“おやすみ”をメッセージで言い合った。
明日はパパを見送ってから、やることがたくさんある。私は頭の中でシミュレーションをしていた。
パパは8時過ぎには家を出る。診察は9時から。だからそれまでは、怪しい行動はできない。パパが忘れ物を取りにくるかもしれないから。
でも、教科書を広げながら、置き手紙を書けば、万が一パパが戻ってきたとしても、誤魔化せるかもしれない。
それで9時になったら荷物をまとめて……
大丈夫。時間に余裕はありそうだ。
私は頭の中で、何を持っていって、何を置いていくかを考えていた。
薫くんは、今後のことは会った時に話すと言っていた。
私はもしかしたらシェルターという所に、連れて行かれるのかな……。
以前、夕方のニュースで見たことがある。DV夫から逃げる妻のドキュメンタリー。その女の人はシェルターに助けを求めていた。
薫くんは、私には“明るい未来がある”と言ってくれた。
本当に……そうだといいな。
薬も薫くんが用意してくれると言っていた。
こんな私でも、シェルターは受け入れてくれるのかな?
そんなことを考えていると、具合が悪くなった時に、懸命に看病をしてくれたパパのことを思い出し、胸が締め付けられた。
毎回、いつも嫌な顔ひとつせず、心配そうな顔をして看病をしてくれたパパ。
私の病気を、いつか治すと言ってくれたパパ……。
でもそのあとすぐに、笑っていない目、うっとりした顔も思い出し、それに嫌悪も感じた。
もう……考えるのはやめよう……。
私は薫くんの優しい笑顔を、ただただ頭に思い浮かべていた。
次の日、パパを見送るとすぐに部屋へと向かった。
机には教科書、それからノートを広げた。
そのノートに、昨日、薫くんと相談して決めた内容を、そのまま書き写した。
“パパの妻になることはできません。これからは自分の力で生きていきます。もう二度と帰りません”
薫くんからは、絶対に置き手紙は用意してと言われていた。そうしないと、事故や事件の可能性を残してしまうからと。感謝の気持ちをだらだらと綴るのもやめた方がいいと言われた。そうすると、私に執着をしてしまうかもしれないからと……。
書き終わると、そのページをノートの縫い目に沿って破り、机の上に置いた。
時間を確認すると、9時ちょっと前。
次に私はクローゼットを開けた。




