51 震える指先
夕方にも、薫くんに電話をかけてみた。
もちろん休憩時間ではない。
だけど以前、薫くんに少し時間ができた時に、連絡をくれたことがあったから、私はそれに縋るように、何度も電話をした。
でも結局、薫くんが電話に出ることはなかった。
今この家を出たとして、使える現金は数千円。こんなんじゃホテルに泊まることもできない。クレカは使えない。こんな寒い中じゃ、野宿もできない。
あ……
パパが作ってくれた、雑炊を食べてない。
それどころか、今日は何も食べてない。
何も喉を通らない。
私は何となくその雑炊を捨て、鍋を洗った。捨てたことがバレないように、袋に捨てた雑炊を、新聞紙に包んでからゴミ箱に入れ、それを隠すかのように、家中のゴミ箱の中身をかき集めて捨てた。
ふと、さっきの雫ちゃんの顔を思い出した。
気持ち悪い……ゾッとする……。
思い出しただけで、指先が震えてきた。
色々と考えたいのに、頭が混乱してしまって、何も考えられない。
私はソファに座り、脱力していた。
あ……薫くん……。
パパがいる時に電話がくるといけないから、念のため、機内モードにしておいた。
あー……どうかこれが夢でありますように……。
さっきの雫ちゃんとの会話を思い出す。
“今よりも少し、深い関係になるだけだから”
このまま本当に……私はパパと……?
それを考えると、また気持ち悪くなり、トイレへと駆け込んだ。
トイレから出て、口をすすぐと、私はその場に座り込んだ。体に力が入らない。今日……何も食べてないからだ……。
──気がつくと、心配そうな顔をしたパパが目の前にいた。
「葵?」
「………」
「気を失ってたよ?大丈夫?」
もう夜なの……?
「めまいする?それとも気持ち悪い?」
パパは昨日のパパとは違い、いつもの優しいパパだった。
だけど……確かにパパは昨日、異様なことを言っていた。
「教えて?どう具合が悪い?」
パパは私のおでこを触って熱を確認したり、下まぶたを少し下げ、まぶたの裏側を確認したりしていた。
「……気持ち悪い」
「吐いてたの?」
私は頷いた。
パパは私を抱き上げると、ベッドに寝かせてくれた。
「食欲は?」
ない。
でも何か食べないと……。
「桃なら……」
「わかった。今持ってくるからね」
このあと、パパは缶詰の桃を切って持ってきてくれ、それを食べさせてくれた。
「はい。次はお薬飲もうね」
私はいつもの薬を飲んだ。
「葵、大丈夫だからね?パパがずっとこうやって、葵の面倒を見てあげるから。だからずっと、パパと一緒にいようね?」
そう言うパパは、もういつものパパではなかった。
「葵、世界で一番、愛してるよ」
うっとりとした表情で、私のことを見ながらそう言った。
ゾクゾクとする。
そんな目で、私のことを見ないで。
「パパ、今からお風呂に入ってくるからね。葵はゆっくり寝ててね」
パパは着替えを手に取ると、寝室のドアを開けたまま、浴室へと向かっていった。
だいたい冬は、30分は出てこない。
シャワーの音が聞こえ始めると、私はすぐにスマホを手に取り、機内モードを解除した。
トーク画面を開くと、数件の着信と、私のことを心配するメッセージが表示された。
震える指先で、通話ボタンをタッチすると、薫くんはすぐに出てくれた。
『どうしたの?何かあった?大丈夫?』
その声を聞いた瞬間、涙が溢れ出た。
何から話そう。どこから話せばいい?
『葵ちゃん?泣いてるの?』
私の口からは、ただ震える呼吸しか出てこなかった。
『大丈夫。落ち着いて?深呼吸してみようか』
薫くんの言う通り、息を深く吸い込み、それから深く吐き出そうとした。その時、さっき食べた桃を戻しそうになってしまった。
……声が……出せない……。
今度は涙のせいで、呼吸が乱れ始めた。
『大丈夫。僕がいるから。落ち着いて?』
薫くんの声は、心配そうな感じだったけど、とても優しかった。
早く何か言わないと、具合が悪い私を心配したパパが、早めにお風呂から上がってくるかもしれない。
私はやっとの思いで声を絞り出した。
「……たすけて……」
電話の向こうで、短く息を吸う音が聞こえた。
『どういうこと?何があったの?』
少し慌てた薫くんの声が聞こえてきた。
「パパが……」
『うん。院長がどうしたの?』
思い出しただけでも気持ち悪くなる。
「……私……」
『うん』
「……妻に……」
『ん?』
「……パパの妻にって……」
『は?』
「ごめんなさい。もう切らないと……」
『ちょっと待って──』
私は電話を切ると、すぐにまた機内モードにした。
浴室のドアが開く音がしたからだ。
やっぱりパパは、いつもより早く出てきた。
私は寝たふりをした。
パパが近づく気配を感じる。
どうか起きていることがバレませんように……。
パパは私の頭を、そっと撫でてから寝室を出て行った。
レンジの音が聞こえる。
今日は冷凍食品で夜ごはんを済ませるようだ。
私はパパが出す生活音を注意深く聞きながら、機内モードを解除し、メッセージアプリを開いた。
薫くんから、たくさんのメッセージが届いていた。
『院長がそう言ってたの?』
『いつそう言われたの?』
『何かされた?』
『メッセージもできない?』
そんな感じの内容だった。
私は昨日のことを、入力し始めた。
何から伝えればいいのかわからなかった。
指が震えて、文字を上手く打ち込めない。
その間にも、薫くんからのメッセージは届き続けた。
『今見てるんだね?』
『大丈夫だから。僕に話して?』
『もしかしたら今、文字を入力してるのかな?ゆっくりでいいからね。ずっと待ってるからね』
その文字を見ただけで、また涙が溢れてしまった。
レンジからは温め終わった音が聞こえてきた。
次にキッチンに向かう、スリッパの足音がした。パパはリビングでごはんを食べようとしているのか、テレビの音が聞こえ、ソファに座る音も聞こえてきた。
大丈夫。パパはまだ寝ない。
私は震える指で、必死に文字を打ち続けた。
頭が混乱しているから文章がおかしいかもしれない。でも、内容が伝わりさえすれば、そんなのはどうでもいい。
文章を打ち込み終わると、その内容の確認もせずに、すぐに送信ボタンをタッチした。
長文がトーク画面にパッと表示され、すぐに既読がついた。




