権力の均衡点
―― 第一区画:本社中枢棟 社長室 ――
サナエたちがディルバト地区で泥にまみれて開墾に勤しんでいた頃、アーサ・ブカブ本社の最深部でもまた、静かな嵐が吹き荒れていた。
サナエがかつて大立ち回りを演じた社長室。
重厚な木目調のインテリアと控えめな照明が整えられた空間は、極上の品格と、逃げ場のない圧迫感を漂わせている。
ローテーブルを挟んで向かい合っているのは、会社の絶対権力者・クァドラットと、ベレギニア地区の不動産部門を統括するアスタート上級役員。
テーブルの上にはお茶も菓子もなく、ただ一枚の書類がアスタートの読める向きで置かれていた。
静寂が支配する部屋に、重い空気が満ちる。
「……これが、私に対する上申書ですか」
「ああ。君がメトワ君をあちら側から引き抜いてしまったからね。 彼女は反対派閥の象徴であり力の源泉だった。 それを我が陣営に組み入れたのだから、彼らにとっては精一杯の反撃というわけだ」
「私がアーサ・ブカブ地域へ不当に先住民を引き入れ、社内テロを企てている……ですか」
クァドラットはソファーの背もたれにゆったりと体を預け、完璧な営業用の笑顔を浮かべた。
「誤解しないでほしいが、私は君が個人的に何をやろうと興味はない。 君が私や会社に反逆する気がないことも知っている。
それに、不法移民であっても労働意欲がある者に階位カードを発行する件は、すでに役員会を通過した正当な規則だ」
「……」
「だがね……『意図的に外から先住民を招き寄せている』となると、話のニュアンスが変わってくる。 もちろん、そのための私設治安隊だ。
多少の摩擦はあるにせよ、会社にとって実害のある脅威ではない。……だが、この上申書には真逆のストーリーが誇張されて書かれている」
アスタートは書類に視線を落としたまま尋ねた。
「社長は、この虚偽の書類を信じるのですか?」
「私にも独自の情報網がある。ここに書かれている『テロの脅威』が多分に盛られた誇張であることは重々承知しているよ。……だが、全てが無根拠なデタラメでないことも確認できている」
「……」
「アスタート君。 私は君の手腕をきわめて高く評価している。 ベレギニア地区における我が社の資産安定と収益化は、君の能力なくしては不可能だった。
……だがね、次の役員会でこの上申書と共に『証拠』を突きつけられた場合、かばい立てするには少々骨が折れる」
「……私にどうしろとおっしゃるのです?」
「我が派閥には、不動産関連の重責が二人も揃っている。 私としても君やメトワ君を手放す気はないし、彼ら反対派に寝返られるのは非常に困る。 ……そこでだ。君の『階位の降格』を提案したい」
アスタートの眼光がわずかに鋭くなった。
「分かるよ。最上級クラスの階位があるからこそ、守れる人々がいるんだろう。 君が自ら経営する『ナンバーマーケット』で先住民を優先雇用しているのは知っている。 表向きは人件費削減だが、そこで5等級の労働実績を作らせ、生活を安定させて社会へ戻していく……実に素晴らしい人道主義だ」
「……」
「だが、彼らが噛みついてきたのは、まさにそこなのだよ。『アスタートが先住民を手懐けて私兵化している』とな。
減位を受け入れれば、最高位の特例である関係者枠の不逮捕・不排除特権が消えるわけだ。 不法侵入は現行の法令による罰が下る。
そうなれば、反対派の言う先住民によるテロ行為への脅威への落としどころになる。そうは思わないかね? 」
「……」
「と言っても、君の社内での実権を奪うつもりはない。このまま不動産部門のトップとして、我が社に貢献し続けてほしい」
「……あの件が、そこまでお気に召さなかったのですか?」
アスタートの問いに、クァドラットはくすりと微笑んだ。
「ふふふ……深読みが過ぎるよ。かつての恋人であるメトワ君を救おうとした行動なら美談だ。
だが、私の描いたシナリオに余計なノイズを入れたという点では、少々困りものだったがね。……まあ、彼女が最終的にこちらへ来るという結果自体は同じだったが」
「……」
「言っておくが、私は君たちを見捨てる気も、使い捨てる気もない。 今まで通り不動産部門で腕を振るってくれ。 先住民の救済だって、我が社にとって害ばかりではない。 人口アドバンテージは労働力として大きな利点だからね」
貼り付けたような笑顔を微塵も崩さないクァドラット。
「今まで通りの無茶はできなくなるが、上級階位であってもメトワ君と連携すれば、それなりの手は打てるはずだ。
……まあ、降格によって君の庇護から漏れる者が多少は出るだろうがね。 だが君が会社を辞めてしまえば、それこそ誰一人救えなくなる。
よく考えて返事をくれたまえ」
クァドラットの視線は、アスタートから外れない。
絶対的な資本と権力を握る男からの、逃げ場のない信頼の追撃。
「……承知いたしました。減位を受け入れます」
クァドラットは満足そうに何度も頷いた。
「うん、うん! さすがはアスタート君だ。助かるよ」
アスタートはテーブルの上の上申書を拾い上げ、立ち上がった。 去り際、最後にもう一度そのペーパーに目を走らせる。
<エステート事業統括管理 執行役員 アスタート上級役員の不正について>
<上記人物はアーサ・ブカブ地域内に不当に先住民を引き込み、域内の治安を著しく悪化させている。これは社長の座を狙う社内テロの準備であり、看過できない事実である。被害が拡大する前に、同氏の役職追放および階位のはく奪を強く上申する――>
(私の階位の裏事情まで知っている人間など、役員会の内部にしかいないはずだが……)
苦い思いを胸に秘め、アスタートは静かに社長室をあとにした。
室内には、社長のクァドラットだけが残される。
(まったく……権謀術数ごっこが好きな連中だ。次期社長候補だったメトワを取り込むタイミングが早すぎたのが災いしたか)
パイクはデスクの通信機を叩いた。
「紅茶を頼む」
『畏まりました、社長』
室内待機のアンドロイドトークンが素早く動き出す。
(強すぎる権力は、余計な反発と警戒を生む。いつでも倒せそうな隙を見せておくのが政治の定石なのだがな……まあ、なってしまったものは仕方がない)
運ばれてきたカップを受け取り、温かい紅茶を口に含む。芳醇な香りが胸を満たした。
(メトワを抱き込むのも、もう少し彼女の勢力を削いでからにする予定だったのだが……想定外の手手順の狂いだったな。
……秘匿ネットワークに006部隊を介入させたのも、例の新装備のテストを兼ねてのことだったが、随分と面白い運用をしてくれている。 予定通りにいかないのもまた世の常か)
パイクは満足そうに目を細めた。
(とはいえ、コールドスリープ住民の解放による無能貴族どもの排除、被検体データの回収……実によく働いてくれた。
……しかしリジェネレイターまで引っぱり出されてくるとは思わなかったな。 やはりヴァスパーの影に、あのサイコ女が潜んでいたのは間違いないか)
ふと、デスクの端に置かれたサナエの求人広告に視線が留まる。
(同じマールス人の天才でも、こうも毛色が違うものかね)
(まあいい。実戦データは十二分に回収できた。荒事でのデータ収集こそが最速の回答を生む。「行動故の結果」というヤツだ)
その時、端末が短い電子音を鳴らした。
(また、あのじゃじゃ馬科学者か? )
端末の文字は、社長室からである。
*** ☎ 通信中 ***
≪どうした?≫
≪行政府より宮廷への参内要請が届きました。タンバレイン皇太子殿下からのご指名です≫
≪了解した。スケジュールの調整を頼む≫
≪かしこまりました≫
*** ☎ 通信断 ***
パイクはゆっくりと深呼吸をし、窓の外の金星の街並みを見下ろしながら立ち上がった。
「……いよいよか」
*
アスタートの降格処分が決まった数日後、006案件 執務室にサナエ、セレン、ローラ、そしてメトワの姿があった。
「アスタートさんがねぇ……。あの人、そんなに悪い人のようには見えなかったけど」
(どう見てもその筋の怪しいオーラを全開にしてましたけど!とは言えないわよね……)
心の声をおさえつけ、ローラは大人しく言葉を合わせた。
「そうですね……例の社内政治の影響なんでしょうね」
連日のシゴキのおかげで、ローラの立ち振る舞いにも随分と落ち着きが出てきている。
「その通りよ。もっとも、社長による自作自演のマッチポンプでしょうけど」
出された紅茶を一口含み、メトワが淡々と解説する。
「社長が? でもアスタートさんって、元々は社長派の筆頭だったんじゃ……」
「政治というのは複雑なのよ。私が社長派に鞍替えしたことで、反対派の勢力が激減してしまった。 だから社長は、あえて自陣営の力を削ぐことで社内の緊張感を保とうとしたの」
「圧倒的な一人勝ちの方が安全な気がしますけど」
「片方が強すぎれば、その分反発のエネルギーも巨大になるわ。針の穴ほどの隙から全崩壊につながることだってある。 だからアスタートの『罪』をでっち上げて降格させ、反対派の溜飲を下げさせた……要するに生贄人事よ」
「でも、でっち上げで降格なんて通用するんですか?」
「……『事実』でもあったからよ。彼は壁の向こうのアウター地区から、許可のない先住民をインナー地区へ秘密裏に引き入れていたわ」
「……」
「差別され、排除された先住民たちに、住居と働く場所を与えていたのよ。彼の直営する『ナンバーマーケット』でね」
「身近なところでそんなことを……」
サナエが感心したように呟く。
「それって、彼らに生きる術を与えていただけじゃないですか!」
ローラが思わず声を上げる。
「ええ。そこで一定期間働けば『5等級』の市民権が得られ、壁の内外を自由に行き来できるようになる。彼らにとって再起のための第一歩よ。……けれど、許可なくアウターの人間を招き入れる行為は明確な社内規定違反。そこを突かれたの」
「……これから、彼に守られていた人たちはどうなるんですか?」
「残念だけど、庇護を失った彼らは即座に『排除対象』の最前線に立たされるわ」
「……ッ」
排除対象――それは治安隊の弾幕の標的になることを意味している。
「ディルバト地区の開発がもっと進んでいれば受け入れ先にもできたけれど、今のあの場所に余分なスペースも資源もないわ。今無理に受け入れれば共倒れになる。
……悔しいけれど、こぼれ落ちる命を見捨てるしかないのよ。私も神様じゃないし、上級階位じゃ守れる範囲に限界があるわ」
メトワが苦々しく呟いた。
綺麗事だけではどうにもならないアーサ・ブカブの現実。 イシュタルの地の残酷さが、渦巻いている。
重苦しい沈黙が室内の空気を押し潰しそうになったその時、メトワがそれを払うように声を上げた。
「そうそう。ヒルベルト商会からの追加出資の件、正式に承認が下りたわよ」
「へえ、意外とあっさり通るのね」
「誰もディルバト地区なんて興味がないのよ。『忌み地』なんて噂もあるしね。社長もろくに資料も見ずにサインしていたわ」
「へぇ……あの深謀遠慮な社長がねぇ」
「最近、行動に謎が多いのよ。何か大きな動きの前触れかしら……」
メトワが、カップを置く。 その言葉にサナエがひょいと首を傾げ質問する。
「ところでさ、その“忌み地”って何があったの?」
「噂程度だけどね……ナンバーズ案件が絡んでいるとか」
「ナンバーズ案件ねぇ」
「以前、あの地区に“意識を持たないゾンビのような住民”が、出没するという噂が流れたの。 実際、死体のように意思を失った人間が彷徨っていたらしいわ。 最近は見かけなくなったけれど、一度ついた尾ひれは簡単には消えないものね」
「ゾンビ? ……噛みつかれたら感染するあのゾンビ?」
「映画じゃないんだから、そんな感染症は発生してないわ。 そもそも死体ですらなかったそうよ。 血流も心臓も正常に動いていて、ただ声をかけても一切の反応を示さない。気味は悪かったでしょうけどね」
「じゃあ、その“ゾンビ”の正体は何だったわけ?」
「詳しい正体は分からないわ。研究機関で保護された個体を調べたけれど、対象者の“記憶”が跡形もなく消失していたのよ」
「……」
サナエの瞳の奥で、鋭い光が走った。
「完全な記憶喪失……というより、記憶そのものを漂白された状態ね。 噂では、006部隊の上の階――トリプルゼロの研究成果じゃないかって囁かれているわ」
「ねえローラ。3階の開発研究室って何なの?」
「え、ええーっ!? いやー私のような一社員にはさっぱりわかりませんでしてーっ!」
(言えるわけないでしょう! クビどころじゃ済まなくなっちゃいますよー!)
「人の記憶を抹消する研究……『記憶の漂白化』か……。ねえメトワ、ひとつ聞いてもいい?」
「何かしら?」
「この会社に、以前マールスがいたって話をちょくちょく耳にするんだけど」
「いたわね。確か……セサミ……セラミン……だっけ?」
「――セミラミーデ」
「ああ、それよ。 発音しにくいから、みんな“アク”って名前の方で呼んでいたわ。
ファリク博士という研究者とその妻と一緒に、チームを組んでいたらしいわね。 といっても、そのゾンビの話はアクが来る前の話だけどね」
「……あいつが、ここにいたのね」
サナエの雰囲気が一変した。
メトワの言葉の後半を聞き流し、「セミラミーデ」という単語だけに反応して、その整った顔立ちが恐ろしいほどの冷気に包まれる。
「……あのサイコ女」
我が儘な開発主任に手を焼いていた時ですら呆れ顔で済ませていたサナエさんが、明確な「怒り」と「殺意」を秘めた表情を露わにしていた。
その横で、ローラが恐怖のあまり身を縮こまらせる。
(なんなの! あいつサナエさんに何したの! こ……怖すぎる……ッ!)
しかし、サナエは瞬時に表情を削ぎ落とし、冷徹な研究者の顔に戻った。
「……そう。それで、そのファリク博士っていうのは? あの現場の開発主任なの?」
「いいえ。 今の彼は元々、ファリク博士の弟子か助手のような立場ね」
「で、その本物のファリク博士は今どこに?」
「辞めたわよ」
「辞めた? 」
「もう時効だから話すけれど……最初の狂いはアクの解雇だったわ」
「解雇?」
「倫理委員会で相当な問題を起こしたらしいの。彼女が去った後、ファリク博士の妻が病死してね。ショックを受けた博士も会社を辞めて姿を消したわ。 残された部下が主任に昇格して、今の研究を引き継いでいるというわけ」
「……」
「噂では、ファリクの妻も相当にイかれていてね。『神の再現』がどうとか叫んでいたらしいわ。 あの研究棟がいわく付きになったのは、そこからよ」
「……それで、解雇されたセミラミーデはその後どこへ行ったのか知ってる?」
「さあ? 解雇された人間の追跡調査なんてしていないわよ。 私は部署が違ったし、上がってきた情報しか知らないわ」
考え込むサナエさんをよそに、今度はメトワが切り出した。
「私からも一つ聞きたいことがあるの」
「何かしら?」
サナエの思考が即座に切り替わる。
「資本を入れてくれたのは助かるけれど、ディルバト地区に1000億ヴィール以上の巨額資金を投じて、本当に回収の目処はあるの?」
「ふふ〜ん! それについては、うちの優秀な参謀に説明させましょう!」
サナエがビシッとセレンを指差し、指名されたセレンは滑らかな動作でモニタを展開し、事業計画の説明が開始される。




