四十五 帰国手段
女性たちが風呂を優先している間に、虎丸は兵士用の酒保(雑貨屋と居酒屋を兼ねた軍施設)で飯を食わせてもらった。
三人には城内の寝室(来客用)が二つ与えられ、そこでゆっくり休むこともできた。
白虎帝の身体が空いたのは、副官のエディスが予想したとおり、夜になってからであった。
ノエルへは、エイナが単独で報告することになった。姉弟は迷宮の緊張が解けたせいか、ベッドで泥のように眠り込んでいたので、白虎帝がそのように指示したのだ。
報告内容は詳細なものではなく、階層ごとに何が起きたのかは、かなり省略して語られた。
どうせ王都に戻れば、エイナは参謀本部の事情聴取を受け、正式な報告書を提出することになる。
その写しが四帝にも送られてくるから、現時点では神符が盗まれて迷宮に隠された経緯が、ざっくり分かればいい。
この事件を主導したのはアマテラス神で、漆黒がそこに巻き込まれ、黒蛇ウエマクまでが協力したという真相には、さすがにノエルも驚いた。
彼らがグルなら、ウエマクへは漆黒からエイナと姉弟がどう行動し、何を決断したかの説明があるだろう。当然、ウエマクの分身であるヘビ(ラオフウの尻尾)にも、その内容が伝わるはずだ。
白虎帝としては、エイナの報告書が届いてから、ヘビが知る情報と付け合わせ、じっくり分析・検討すればよい。
王国を実質的に運営している彼らにとって、神符の行方など最初から他人ごとである。いざという時の王の逃げ道となる迷宮の存在と、それが確かに機能しているという事実の方が重要だった。
迷宮が使われる事態とは、帝国の侵略と軍の壊滅を意味するから、あまり考えたくない話である。
ただ、土壇場まで何も知らされない、間抜けにはならずに済む。マリウスと四帝の自尊心は、この一点において十分に慰められるだろう。
もちろんこの秘密は、彼らの間だけで共有され、恐らくレテイシア女王にすら報告されないだろう。
自分たちは間抜けになりたくないが、他の者は間抜けのままでいてほしい――そう考えるのは、人間の特徴である。
* *
翌朝、エイナと姉弟は、軍の馬車で王都に戻った。
彼女たちが迷宮から帰還したことは、白城からの伝書鳩で参謀本部も知っていたから、一行は王城に着くなり、マリウスへの出頭を命じられた。
ここでの報告も、ごく簡単なものとなった。もう夕方だったし、本格的な聴取は明日ゆっくり行えばよいからだ。
話をするのはエイナが主で、一時間余りで終わった。
「大体のところは分かった。君たちの帰還後、迷宮の入口は閉じられたのだな?」
「はい。床に這いつくばっても、絶対に見分けがつかないと思います。
漆黒殿の話では、私たちが入れたのは特別に操作したからで、通常は王が近づかない限り、決して開かないそうです」
「エイナが記録したという階層の地図だが、その野帳は没収する」
「私たちが出た後で、各階層の構造は自動的に変えられるのだそうです。
ですから、私の地図は何の役に立たないと思いますが……」
「駄目だ。そういう問題ではない。
それと、当然ではあるが迷宮の存在とそれに付随する情報の一切は、第一級の軍機に指定する。
他言は厳禁だ。これは小夜君と虎丸君にも守ってもらう」
エイナは軽い溜め息をついて、胸ポケットから野帳を取り出し、マリウスに手渡した。
「そう不満そうな顔をするな。野帳は新しいものを支給してやる。
取りあえず、姉弟はこれで下宿に帰ってよろしい。ご苦労だったな。
ああ、エイナはまだ話があるから、ここに残れ」
「待ってください!」
声を上げたのは小夜だった。
「エイナ様のご報告にもあったはずです。
図々しいお願いだと分かっておりますが、私たちの帰国にご協力願えるのか、それだけでも教えていただけませんか?」
彼女の声には悲痛な響きがあった。せっかく神符を取り戻しても、帰国が間に合わなければ、すべてが徒労となるのだから、その気持ちはよく分かる。
だが、マリウスの回答はあっさりとしたものだった。
「君たちの身柄は、我々が責任を持って故国に送り届ける。
それと、叡国が国境付近に戦力を移動させているのは事実だが、参謀たちの分析によれば、実際に侵攻が始まるのは、早くても一か月以上先の話になるそうだ。
だから、焦る必要はない」
「信じられません! そんなことが、なぜあなた方に分かるのですか!?」
小夜が驚くのは当然だったが、エイナも目を丸くしていた。
王国には海軍というものがない。もちろん、ボルゾ川に面する第二軍と第四軍は、兵員や物資を輸送する川船くらい持っている。
だが、海洋国家のケルトニアとは違い、海を渡れるような外航船は存在しなし、造船技術も設備もない。
ケルトニアや東沿岸諸国から購入するにしても、契約から引き渡しまで何か月もかかるはずだ。
ましてや、小夜と虎丸によっておよその航路は判明したが、王国にとっては、未知の大陸であることに変わりない。
マリウスは安請け合いをしたが、簡単な話ではないはずだ。
しかし、参謀副総長の表情には余裕があった。
「私は『責任を持つ』と言ったはずだよ。他の国の正確な位置や地形を、事前に下調べをするのが当然だろう。
ついでに叡の国を偵察するくらいのことは、誰だって考えるさ」
「あっ! もしかして、アラン大佐ですか?」
「今ごろ気づいた、という顔をしているぞ? エイナにしては迂闊だな」
マリウスが笑い、エイナは納得したようだが、小夜にはさっぱり状況が分からない。
「あのっ、そのアラン大佐とは、どのようなお方なのですか?」
「国家召喚士よ。もう三十代後半のはずだけど、金髪碧眼のもの凄い美形なの。
小夜さんも見たらびっくりするわよ」
「そうじゃなくて、どうしてその方が叡の情報を持っているのですか!?」
「ああ、そうだったわね。
彼が召喚した幻獣は、ロック鳥という、とんでもなく巨大な鳥なのよ。
人員輸送用の小屋をぶら下げて飛べるから、あなたたちを羅の国に送り届けることだってできるはずよ」
「わっ、私たちが空を飛ぶのですか?」
「乗り心地は酷いけどね。吐くのは覚悟した方がいいわよ。
それにしてもマリウス様。いくらロック鳥でも、海を渡るのは簡単ではなかったでしょう?」
「あの鳥の主食はクジラでね。定期的に北海や東海で狩りをしているらしい。
アランに訊いてもらったら、東大陸にも何度か行ったことがあるそうだ。もっとも、二日間ぶっ通しで飛び続けるらしいがね。
それで、君たちが迷宮に潜っている間に、アラン大佐に偵察してもらったというわけだ。ロック鳥は平気らしいが、あの大佐が顔をしかめていたから、人間には相当きつい旅になるそうだ」
「うわぁ……。虎丸君はとにかく、小夜さんが気の毒だわ。気をしっかり持ってね。
アラン大佐は酔い止めの薬を持っているから、分けてもらうといいわよ」
「わずか二日で海を渡れるなんて、夢のようなお話です。もちろん、覚悟はできています。
でも、アマテラス様から加護がいただけるよう、祈ってみます。今回の件では、神意に添って行動したのですから、そのくらいのご褒美はくださるような気がします」
「ぐだぐだ言ったら、神にあるまじきアレな趣味をばらすと脅かしてやればいいのよ」
「さすがにそれは……」
小夜は苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。
「時間的な余裕があるとしても、一刻でも早く戻れば、それだけ準備を整えられます。さっそく出発のご手配をお願い申し上げます」
「そうはいっても、こちらにも都合があるのだよ。
アラン大佐には伝書鳩を飛ばしたから、明後日には王都に戻ってくるだろう。
それで、いったんは蒼城市に向かってもらう」
「なぜ蒼城市へ?」
「エイナには、後で理由を話す。
明日の事情聴取は、小夜君と虎丸君の二人だけに行う。長時間になって大変かもしれないが、協力してほしい」
「もちろん、構いません」
小夜はうなずいたが、エイナは首を傾げた。
「私は一緒でなくてもよろしいのですか?」
「話を聞いていなかったのか?
明後日には王都を発つのだから、報告書を書く時間は明日しかないのだぞ。
報告書は明後日の朝までに完成させ、提出しろ。これは命令だ」
「ええっ、たった一日でですか?」
「提出期限は明後日の朝だ。今日と明日、徹夜すれば丸二日の余裕がある。泊まり込みを許可してやるから、せいぜい頑張りたまえ」
「いえいえいえ、ちょっと待ってください。
明後日出発するのは小夜さんたち姉弟の話であって、私は関係ないのですから、納得がいきません」
「何を寝惚けたことを言っているのだね?
君も同行するからだよ。決まっているじゃないか」
「えとえと、あのっ、前回同様にシド様に報告書を届けるつおつもりなら、アラン大佐にお願いすれば済む話です。
それに、報告書の写しまで用意するのは、いくら何でも無理ですよ」
「蒼城市に寄るのは、アラン大佐の都合であって、報告書は関係ない。
今日の君は察しが悪いな。まぁ、疲れているから無理はないか……君は姉弟とともに、羅の国に行くのだ」
「はい?」
「羅の国へ行ってこい」
「本気ですか?」
「当り前だ。すでに陛下にお願いして、羅の国王と藤野家の当主に宛てた親書も用意してある。
君は外交使節として両者に面会し、同国と誼を通じてこい。
東大陸と継続的な貿易が実現すれば、我が国に莫大な利益をもたらすことになるのだから、責任は重大だぞ」
エイナは開いた口が塞がらなかった。
マリウスは最初からそのつもりだったのだ。
「もしかして、姉弟に協力したのも、それが目的だったのですか?」
「当り前だ。軍が人助けで動くはずがあるまい。
小夜君には明日、改めて説明するつもりだったが、こうなったらついでだ。
聞いたとおり、リスト王国は貴国との交易を望んでいる。
その前提として、まずは友好関係を結びたい。君の父上や羅の国王陛下をはじめ、必要と思われる人物にエイナを引き合わせてほしいのだが、頼めるだろうね?」
「これだけお世話になったのですから、喜んでご協力いたします。
ただ、戦が迫っている今の状況では、それどころではないと思います」
「当然だろうな。だから、外交使節兼任の観戦武官という触れ込みで、エイナを戦場に連れていけばよい。
観戦武官が自衛のため、戦いに参加することは、慣例として認められる話だ。
東大陸では、魔法の存在が一般に知られていないのだ。エイナは戦場で役に立つと思わないかね?」
「えとあのっ! どうして私が戦争に参加する話になっているのですか!?」
「そのくらい、考えたら分かるだろう。羅の国が叡に負けたら、交易どころの話ではないのだぞ。
我々は羅に勝ってもらわねばならん。少しぐらい手を貸してやってもいいだろう?
それに、羅に恩を売っておけば、その後の交渉もうまく進む。一石二鳥ではないか」
「マリウス様は先ほど、戦争が始まるのは一か月以上先の話だ、と言われましたよね?」
「それがどうかしたか?」
「私はいつになったら帰れるのでしょう。
アラン大佐がずっと待っていてくださる……はずはないですよね?」
「当り前だ。お前たちを羅の国に運んだら、アランにはすぐに帰国する。
二か月もあれば、戦争も片が付くだろうから、そうだな、二か月後に迎えに行かせることにしよう。それで問題ないだろう?」
* *
結局、エイナは参謀本部の一室に缶詰となり、小夜と虎丸だけがファン・パッセル家に帰ることになった。
エイナは走り書きのメモを小夜に渡し、家主のロゼッタに言伝を頼むのが精一杯であった。
そこには、軍務で二か月くらい帰れなくなること、明日の朝、小夜にエイナの着替えと軍礼服を持たせてほしいと記されていた。
ロゼッタは首席参謀副総長の優秀な秘書として、豊富な経験がある。詳しく説明をしなくても、それだけで察するはずだし、その気になれば自らの人脈で、およその事情を調べることもできるだろう。
そして、最後に『シルヴィアとキャミイによろしく』と添えるのも、エイナは忘れていなかった。
* *
その夜、エイナは一晩がかりで報告書の下書きを作成し、朝から清書にかかった。
マリウスに没収された野帳は、執筆の資料としていったん返してもらった。
そこには、階層のマップとともに、出現した魔物の種類や地点も書き込まれていたし、かなりの覚書が記入してあったから、あるとないとでは大違いなのだ。
執筆中には、何度かエイミー(マリウスの秘書)が、熱いコーヒーとお菓子を差し入れにきてくれた。上司の命令で偵察に来たのが見え見えである。
エイナはぼさぼさの黒髪を振り乱し、目の下に隈をつくっていたが、その手もとでは真新しい羊皮紙に、几帳面で美しい字が結構な速度で書き込まれていた。
羊皮紙は紙に比べてインクの乾きが遅く、油断すると軍服やシャツの袖を汚すことになる。
もちろん、羊皮紙にもそんな染みは作れないし、手の汗や脂は虫に喰われる原因となるので、腕抜きと指なし手袋が必要となる。
誤字脱字は論外だから、集中を切らさずに黙々と執筆を続けるのは、まさに苦行である。
結局のところ、報告書はその日夜遅くに完成し、二日目の徹夜は免れた。
エイナは自分の小さな机に突っ伏し、『お家に帰りたい……』とひと言つぶやくと、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、彼女が目を覚ますと、誰がやったのかは分からないが、その肩に毛布がかけられていた。




