第5話 公爵家の昼食と、終わらない調査
測定器の針が、ゆっくりと左右に揺れていた。
リゼットは手帳に記した数値と見比べながら、わずかに眉を寄せた。先ほどヴィンセントの手に触れたあとから、人工心臓の動きは明らかに安定している。接触をやめてもその状態が続いていることは分かったが、どれほど持続するのか、そもそも何が起きているのかは、まだ何ひとつ説明できなかった。
「グレゴール様、この振れ幅、もう一度確認していただけますか?」
「うむ。先ほどとほとんど変わってないな」
「そうですよね……。でも、私が触れただけで制御回路の異常が直るとは思えません。何か別の作用が起きているはずなんです」
リゼットは測定器の構造を確かめるように身を乗り出した。父と一緒に作ったこの装置は、対象に魔力を流し込まず、内部の動きを読み取るためのものだ。だからこそ、人工心臓に余計な負担をかけずに調査できる。もっとも、今のような現象を想定して作ったわけではなかった。
「ベルニエ嬢。君は朝からずっと、よく働くな」
少し離れた椅子からヴィンセントが声をかけた。
「気になることが多すぎるんです。こんなに珍しい魔導具を前にして、何も調べずに帰るなんてもったいないでしょう?」
「私の心臓を、ずいぶん気に入ってくれたようだ」
「構造の話ですよ」
リゼットが振り向かずに答えると、ヴィンセントは楽しそうに笑った。彼女が何を気にしているのかは、もう十分に分かっている。自分の身体を心配してくれているのも確かだが、それと同じくらい、目の前の魔導具の仕組みを知りたくて仕方がないらしい。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「旦那様、昼食のご用意が整いました」
オルフェンの声に、リゼットはようやく顔を上げた。
「……もうお昼ですか?」
「とっくにな」
ヴィンセントが立ち上がる。
「区切りもいいだろう。食事にしよう」
「でも、もう少しだけ記録を……」
「測定は食事のあとでもできる。グレゴール、お前もだ」
「私はあと一度、この針の動きを確認してから……」
「二人とも、似た者同士だな」
ヴィンセントが呆れたように笑うと、リゼットとグレゴールは顔を見合わせた。
確かに、少しだけ心当たりがある。リゼットも工房では、修理に夢中になって食事の時間を忘れることが珍しくない。父には何度も注意されているし、母からは、工具と一緒にパンまで机に並べるつもりなのかと呆れられたこともあった。
「……では、今の数値だけ記録しておきます」
「それが終わったら、ちゃんと食事に来るんだぞ」
「分かっています」
返事をしながら手帳に書き込むリゼットを見て、ヴィンセントはもう一度笑った。
案内された小食堂は、リゼットが想像していたよりもずっと落ち着いた雰囲気だった。大きな窓から柔らかな日差しが差し込み、白いクロスの敷かれたテーブルには季節の花が飾られている。もっと格式張った場所を想像していたので、少しだけ安心した。
とはいえ、並べられた食器や磨き上げられた銀器を見るだけでも、普段の食卓とは随分違う。リゼットは案内された席に腰を下ろし、目の前に置かれた美しい皿を眺めた。
「公爵様のお屋敷で昼食までいただくことになるとは思いませんでした」
「夕方まで調査に付き合ってもらうんだ。食事くらい用意するさ」
「ありがとうございます。……それにしても、素敵な食器ですね」
「料理より先にそちらか?」
「こういう細工も好きなんです。模様がとても綺麗で」
リゼットが皿の縁を指さすと、ヴィンセントは感心したように目を向けた。
「なるほど。君は細かな仕事を見るのが好きらしい」
「はい。作った人が何を考えて、どう仕上げたのか想像するのが楽しくて」
そう話しているところへ、温かなスープが運ばれてきた。
香草の優しい香りが広がり、リゼットの視線はすぐにそちらへ移った。淡い黄金色のスープには細かく刻まれた野菜が浮かび、湯気とともに食欲を誘う香りが立ち上っている。
「……いい香り」
「遠慮なく食べてくれ」
「はい、いただきます」
ひと口飲むと、野菜の甘みと深い旨みがゆっくりと広がった。思わず笑みがこぼれ、リゼットはもう一度スプーンを運ぶ。
「おいしい……。こんなに優しい味なのに、しっかり旨みがあるんですね」
「気に入ったならよかった」
続いて運ばれてきた肉料理も、驚くほど柔らかかった。添えられた野菜は彩りよく盛りつけられ、皿の上に小さな庭園が作られているようだった。
リゼットはひと口ずつ味わいながら、自然と表情を明るくした。
「母に話したら羨ましがられそうです」
「母君も食べることが好きなのか?」
「はい。作るのも食べるのも好きなんです。新しい料理を覚えると、すぐ家族に食べさせたがるんですよ」
「賑やかな食卓になりそうだな」
「そうですね。父はいつも感想を求められています。おいしいって言うだけじゃ足りないらしくて」
ヴィンセントが笑った。
「それはなかなか大変そうだ」
「でも、父も嬉しそうなんです。結局、毎回きちんと感想を言っていますから」
リゼットも笑いながら答えた。
食事が進むにつれ、最初に感じていた緊張は少しずつ薄れていった。ヴィンセントは必要以上に作法を気にさせることもなく、工房での暮らしや普段の仕事について気軽に尋ねてくる。
「ベルニエ嬢は、いつ頃から修理の仕事を?」
「小さい頃から父の仕事を見ていました。最初は壊れた部品を眺めるだけだったんですけど、仕組みが分かるようになると、今度は自分で直してみたくなって」
「それで修理師になったのか」
「はい。壊れたものがまた動き始める瞬間が、一番好きなんです」
そう話すリゼットの目は、料理を前にしたときとはまた違った輝きを帯びていた。
「もちろん、失敗もたくさんしました。父に怒られたこともありますし。でも、どうして動かないのか考える時間も好きなんですよね」
「君には天職なんだろうな」
「そうだったら嬉しいです」
リゼットは素直に笑った。
ヴィンセントは、その表情を眺めながらふと考えた。彼女は明るく、よく笑う。けれど、魔導具の話になると、何かを追いかけるように目が真剣になる。今朝、人工心臓の測定器を覗き込んでいたときもそうだった。
あれほど必死に自分の心臓を調べていた女性が、今は料理のおいしさに目を輝かせている。その切り替わりが、妙に面白かった。
昼食を終えて調査室へ戻ると、グレゴールはすぐに測定器の前へ向かった。
「さて、次の記録を取ろう」
「はい。食事の前と比べてみましょう」
リゼットも椅子を引き寄せ、手帳を開いた。
ところが、測定器の針を見た途端、その表情が変わった。
「……あれ?」
「どうした?」
「振れ幅が大きくなっています」
グレゴールが身を乗り出した。
確かに、昼食前には落ち着いていた針が、少しずつ不規則な動きを取り戻している。まだ朝のような状態ではないものの、明らかに変化が起きていた。
「公爵様、お身体はどうですか?」
リゼットが振り向くと、ヴィンセントは少し考えてから胸元に手を当てた。
「……そういえば、少し戻ってきたな」
「何がですか?」
「胸の奥に、何かが引っかかっているような感覚だ。痛いわけではないが、呼吸をするとわずかに重い」
リゼットは眉を寄せた。
「いつ頃からですか?」
「食事の途中では気にならなかった。今、言われてみれば、という程度だ」
「……なるほど」
リゼットは手帳に視線を落とした。
今朝、ヴィンセントは十年ぶりに身体が軽くなったと言っていた。あのときは、発作が治まったことによる変化だと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。
「公爵様。その違和感は、十年前からずっとあったものなんですか?」
「ああ。人工心臓を埋め込んでから、ずっとだ。普段は気にしない程度だったが、完全になくなることはなかった」
「……それが、私に触れている間は消えた?」
「そうだ。胸の奥に何も引っかかっていない。呼吸をするのが、驚くほど楽だった」
リゼットはしばらく黙り込んだ。
十年間、当たり前のように抱えていた違和感。それが、ほんの数分の接触で消えたという。
けれど、時間が経つにつれて戻ってきた。
「グレゴール様。やっぱり、私が触れている間だけ、何かが起きているんだと思います」
「うむ。接触をやめてもすぐには元に戻らんが、効果は徐々に薄れていくようだな」
「ただ、まだ接触時間との関係が分かりません。短い時間でも十分なのか、それとも長く触れていた方が安定するのか……」
「それを確かめる必要がある」
グレゴールは頷いた。
ヴィンセントは二人のやり取りを聞きながら、椅子に深く腰を下ろした。
今の違和感は、いつもなら気にするほどのものではない。十年間付き合ってきた感覚なのだから、むしろ慣れているはずだった。
それなのに、一度あの軽さを知ってしまうと、戻ってきたわずかな重さが妙に気になった。
「……もう一度、試してみるか?」
ヴィンセントが口を開くと、リゼットはすぐに顔を上げた。
「今度は、きちんと時間を測りましょう。前回は正確な接触時間を記録していませんでしたから」
「そうだな。まずは短い時間で変化を確認し、そのあと状態を見ながら少しずつ延ばしてみよう」
グレゴールがそう提案すると、リゼットは頷いた。
「それなら、変化の違いも比較できますね」
準備を整え、リゼットは右手の手袋を外した。
ヴィンセントが差し出した手を取ると、測定器の針がすぐに反応した。先ほどまで不規則に揺れていた針が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……やっぱり」
リゼットは測定器を見つめた。
「公爵様、どうですか?」
「楽になってきた。さっきまであった違和感が、少しずつ消えていく」
「痛みはありませんか?」
「ない。呼吸もずいぶんしやすい」
グレゴールが時計を確認しながら数値を書き留める。
「まだ一分も経っておらんぞ……」
「反応が早いですね。でも、完全に安定するまでには少し時間がかかっているようです」
リゼットは針の動きを注意深く追った。
最初は大きく揺れていた針が、徐々に落ち着いていく。その変化は滑らかで、まるで何かがゆっくりと整えられているようにも見えた。
「……グレゴール様、ここです」
リゼットが測定器を指さす。
「この部分、最初に触れたときより振れ幅が小さくなっています」
「確かに。接触を続けることで、さらに安定しているようだ」
「だったら、もう少し続けてみたいです」
リゼットはヴィンセントへ目を向けた。
「公爵様、お身体に変わったことはありませんか?」
「今のところ、悪い変化はない。むしろ、ずっとこのままでいたいくらいだ」
「では、もう少しだけお願いします」
リゼットはそう言うと、再び測定器へ視線を戻した。
ヴィンセントは、握られた自分の手をちらりと見た。
彼女は相変わらず、測定器のことしか考えていないらしい。今朝は手を握っただけで顔色を変えていたというのに、安全を確かめるための調査となれば、こうして何のためらいもなく手を取ってくる。
ヴィンセントは少しだけ指先に力を込めた。
リゼットは気づかない。
「……ベルニエ嬢」
「はい?」
「いや、何でもない」
「そうですか?」
リゼットは不思議そうに首を傾げたものの、すぐに測定器へ視線を戻した。
ヴィンセントは小さく笑った。
自分が女性に手を差し出せば、たいていは何かしらの反応が返ってくる。そんなことは、彼自身よく知っている。
けれど、目の前の修理師にとっては、自分の手も調査に必要なもののひとつなのだろう。
それが、妙に新鮮だった。
「……公爵様?」
今度はリゼットが顔を上げた。
「どうかしましたか? 何だか楽しそうですけど」
「いや。君は本当に魔導具が好きなんだなと思って」
「もちろんです。こんなに珍しいもの、調べられる機会なんて滅多にありませんから」
迷いのない返事に、ヴィンセントは声を立てて笑った。
「それは光栄だ」
「……心臓のことですよ?」
「分かっている」
分かっているからこそ、面白いのだ。
グレゴールが咳払いをした。
「お二人とも、そろそろ測定に集中していただきたい」
「私はずっと集中していますよ」
リゼットが答えると、ヴィンセントはますます笑いを深めた。
しばらくして、グレゴールが時計を確認した。
「……よし。ここで一度、手を離してみよう」
リゼットは頷き、ヴィンセントの手をそっと離した。
すぐに手袋をはめ直し、測定器を覗き込む。針は安定したままだったが、先ほどまでの動きと比べると、ごくわずかな違いが見られた。
「……まだ安定していますね」
「うむ。だが、これがどれほど続くかは分からん」
「公爵様、違和感は?」
「今はない。十年前に戻ったような気分だ」
ヴィンセントはゆっくりと息を吸い、胸元に手を当てた。
何も引っかからない。
ただ呼吸をするだけのことが、これほど快適だとは思わなかった。
リゼットはその様子を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
「……よかったです」
「君のおかげだな」
「まだ、何も分かっていませんよ」
「それでも、今こうして楽になっているのは事実だろう?」
リゼットは少し考え、それから小さく頷いた。
「……そうですね。でも、だからこそ、きちんと調べたいんです」
「期待している」
ヴィンセントが微笑むと、リゼットも笑い返した。
グレゴールは測定器の記録を確認しながら、低く唸った。
「接触時間を延ばしたことで、安定の度合いが変わった可能性はある。だが、一度の測定では何とも言えんな」
「はい。次は、どのくらいで違和感が戻るかを確認したいです」
「その前に、少し休憩を入れよう」
ヴィンセントの言葉に、リゼットは顔を上げた。
「休憩、ですか?」
「朝からずっと調査を続けているだろう。少し顔色が悪い」
そう言われ、リゼットは初めて自分の身体に意識を向けた。
確かに、少し疲れている。頭が重く、肩にもじんわりとしただるさがあった。調査に夢中になっている間は気づかなかったが、朝からずっと集中し続けていたのだから当然かもしれない。
魔力を持たない自分は、もともと体力がある方ではない。それでも、興味深いものを前にすると、つい無理をしてしまう。
「……そうですね。少し休ませていただこうかな」
「そうしてくれ。ちょうど午後のお茶の時間だ」
リゼットは瞬きをした。
「お茶、ですか?」
「菓子も用意させている。君は甘いものが好きそうだからな」
「……好きですけど、どうして分かったんですか?」
「昼食のとき、食事をずいぶん楽しんでいたから」
「それだけで?」
「勘だ」
ヴィンセントは涼しい顔で答えた。
リゼットは思わず笑った。
「公爵様の勘、なかなか鋭いですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
午後のお茶は、日当たりのよい小さな応接室で用意されていた。
案内されて入ったリゼットは、テーブルを見た途端、思わず足を止めた。
白い陶器のティーポットに、繊細な模様の入ったカップ。中央には三段の菓子台が置かれ、下の段には小さなサンドイッチと塩味の焼き菓子、真ん中には焼きたてのスコーンとジャムやクリーム、そして一番上には果物を飾った小さなタルトや、色とりどりの菓子が美しく並んでいた。
「……すごい」
リゼットは思わず声を漏らした。
ヴィンセントが隣で笑う。
「気に入った?」
「はい。こんなに綺麗なお菓子、見ているだけでも楽しいです」
「それはよかった。料理長に頼んでおいた甲斐がある」
「わざわざ用意してくださったんですか?」
「せっかく一日付き合ってもらっているからね」
リゼットは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきますね」
「ぜひそうしてくれ」
席に着くと、若い侍女が香りのよい紅茶を注いでくれた。
リゼットはまず、小さなタルトをひとつ選んだ。薄く焼き上げられた生地の上には、なめらかなクリームと赤い果実が飾られている。ひと口食べると、果実の甘酸っぱさとクリームの優しい甘みが広がり、思わず笑みがこぼれた。
「……おいしい」
「今日は何度もその言葉を聞いたな」
「だって、本当においしいんです。公爵様は毎日こんなお菓子を召し上がっているんですか?」
「毎日ではないが、希望すれば用意してもらえる」
「それは羨ましいですね」
「君も希望すればいい」
「……私がですか?」
「調査の日に、という意味だ」
ヴィンセントが何でもないことのように言うと、リゼットは少し考えた。
「それなら、次は料理長のおすすめをいただいてみたいです」
「次に来る気になった?」
「あ」
リゼットはカップを置き、ヴィンセントを見た。
「……うまく誘導しましたね?」
「何のことだろうか?」
涼しい顔で紅茶を飲む公爵に、リゼットは思わず笑った。
「そういうところですよ、公爵様」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてません」
二人のやり取りを、紅茶のお代わりを注いでいた侍女が微笑ましそうに見守っていた。
その侍女は、リゼットが菓子台へ目を向けたのに気づくと、そっと声をかけた。
「こちらのスコーンもおすすめですよ。今朝、料理長が焼き上げたものです」
「そうなんですか? では、いただいてみます」
「ジャムは季節の果実を使っております。クリームと一緒に召し上がるとおいしいですよ」
リゼットは勧められたとおりにスコーンを割り、ジャムとクリームを添えた。
「……本当だ。すごく合いますね」
侍女が嬉しそうに笑った。
「お気に召していただけてよかったです」
「ありがとうございます」
リゼットが礼を言うと、侍女は丁寧に一礼し、少し離れた場所へ下がった。
リゼットはもう一度スコーンを味わいながら、窓の外へ目を向けた。
柔らかな午後の日差しが庭園を照らしている。朝から慌ただしく過ごしていたことが嘘のように、穏やかな時間だった。
「……公爵様」
「何だ?」
「今日は、ありがとうございます」
ヴィンセントは少し意外そうに眉を上げた。
「こちらこそ、長い時間付き合わせているが」
「いえ。調査は私も気になりますし、それに……こんなにおいしいものまでいただいてしまって」
「それなら、また来てもらうときも用意させよう」
「またお菓子で誘うおつもりですか?」
「効果がありそうだからな」
リゼットは笑った。
「残念ですけど、魔導具の方が効果がありますよ」
「それは手強い」
ヴィンセントは肩をすくめた。
「では、次はもっと興味深い魔導具を用意しておくか」
「……それは、ちょっと気になりますね」
即答したリゼットに、ヴィンセントは声を立てて笑った。
ーーー
午後のお茶を終えて調査室へ戻ると、グレゴールが測定器の前で待っていた。
「お戻りですか。そろそろ次の測定時間ですぞ」
「グレゴール様、休憩は取られたんですか?」
リゼットが尋ねると、グレゴールは少しだけ目を逸らした。
「……紅茶は飲んだ」
「お菓子は?」
「あとでいただく」
「それ、忘れるやつですね」
思わずそう言うと、ヴィンセントが笑った。
「君も人のことは言えないだろう」
「私はちゃんと食べましたよ」
リゼットはそう答え、手帳を開いた。
測定器の針は、午後の接触を終えた直後よりも、わずかに大きく揺れていた。
「……少しずつ戻っていますね」
グレゴールが記録を見比べる。
「うむ。やはり、時間が経つにつれて効果が薄れていくようだ」
「公爵様、胸の違和感はどうですか?」
ヴィンセントは少し考えてから答えた。
「まだ強くはないが、先ほどよりは感じる。あの軽さを知ってしまうと、余計に気になるな」
リゼットは小さく頷いた。
十年間、当たり前のように抱えていた違和感。
それが消える時間を、彼は今日初めて知ったのだ。
「……接触している間は、確実に状態がよくなっています。でも、離すと少しずつ元に戻る。長く触れていれば、そのあとも長く安定するのかどうかは、まだ分かりません」
「そうだな。今日の記録だけでは結論を出せん」
グレゴールは頷いた。
「それに、人工心臓の制御部分の異常が直ったわけでもない。根本的な修理は必要だ」
「はい。そこは変わりません」
リゼットは手帳を閉じ、ヴィンセントへ向き直った。
「公爵様。今日の結果は、父にも相談させてください。私一人では判断できないこともありますし、修理をお引き受けできるかどうかも、きちんと検討したいんです」
「もちろんだ。急がせるつもりはない」
ヴィンセントは穏やかに頷いた。
「ただ、明日も状態を確認できればありがたい。今日だけでは分からないことが多いからな」
リゼットは少し考えた。
確かに、明日以降の変化を追うことができれば、人工心臓の異常についても何か分かるかもしれない。グレゴールが持っている資料も、まだ十分に目を通せていなかった。
「……父に相談してみます」
「それは楽しみだ」
ヴィンセントは満足そうに笑った。
リゼットもつられて笑い、それから机の上に並んだ記録へ視線を戻した。
今日一日で分かったことは、ほんのわずかだ。
けれど、朝には立っていられないほどの発作に襲われていたヴィンセントが、今はこうして穏やかに話している。
その変化を、偶然で片づけるわけにはいかない。
リゼットは手帳を抱え直し、胸の内でそっと決意した。
必ず、この人工心臓の仕組みを解き明かしたい。
そして、できることなら。
目の前の公爵が、もう二度とあんな苦しそうな顔をしなくて済むように。
ヴィンセントは、そんな彼女を眺めながら、自分の右手へ視線を落とした。
今日、何度も握った手。
そのたびに、十年間抱えていた胸の重さが消えた。
理由はまだ分からない。けれど、彼女が触れている間だけは、失ったはずの身体の軽さを取り戻せる。
それは、思っていた以上に心地よいものだった。
そしてもうひとつ。
あれほど真剣に自分の心臓を調べながら、手を繋ぐことにはまるで関心を示さない、あの修理師のことも。
どうやら、もう少し知ってみたくなっているらしい。




