第6話 公爵様からの思いがけない提案
翌朝、ベルニエ工房の作業台には、いつもより多くの紙が広げられていた。リゼットが昨夜遅くまで整理していた調査記録だ。測定器が示した数値、接触前後の変化、ヴィンセントが訴えた身体の違和感。時間ごとに書き込まれた記録を、父ロランは腕を組みながら読み進めていた。
「……確かに、妙な現象だな」
「でしょう? 私も最初は測定器の故障を疑ったんだけど、グレゴール様と何度も確認したの。公爵様の体調の変化とも一致しているし、測定結果そのものは信用できると思う」
「お前の体質が、人工心臓の制御に干渉している可能性はある。だが、どういう仕組みで安定するのかまでは分からん」
「うん。そこを調べたいの。それと、人工心臓の制御部分にある異常も気になる。今は私が触れることで一時的に安定しているだけで、根本的には何も直っていないから」
リゼットは椅子を引き寄せ、父の隣に腰を下ろした。ロランはしばらく黙って記録を眺め、それから娘へ目を向けた。
「公爵家からの修理依頼、引き受けたいんだな?」
「……うん」
リゼットは迷わず頷いた。
「必ず直せるとは言えないけど、できることは全部やってみたい。昨日、あんなに苦しそうだった公爵様が、私に触れた途端に楽になったんだよ。理由を調べれば、修理の手がかりも見つかるかもしれない」
ロランは娘の顔を見つめた。幼い頃から、リゼットは壊れた魔導具を前にすると簡単には諦めなかった。仕組みが分からなければ図面を描き、部品が足りなければ代わりになるものを考え、失敗すれば最初からやり直す。そんな姿を何度も見てきたが、今回は事情が違う。
「国宝級の魔石を使った人工心臓なんて、俺も実物を見たことがない。まして、人の命を支えているものだ。普通の魔導具と同じようには扱えんぞ」
「分かってる。だから、修理できると断言するつもりはないよ。調査を進めながら、安全にできることを探していきたいの」
ロランは記録をもう一度見下ろし、少し考えてから頷いた。
「……それなら、引き受けてみろ。俺もできる限り協力する」
「本当?」
「ああ。ただし、無理はするな。昨日だって帰ってきたとき、随分疲れていただろう」
「……そんなに顔に出てた?」
「母さんが心配していたぞ。夕食の途中で眠りそうになっていたからな」
「それは、ちょっと疲れてただけで……」
「ちょっと、で済ませるな」
ロランが苦笑すると、リゼットは小さく肩をすくめた。
「気をつけます」
「本当だな?」
「……できるだけ」
「そこは言い切れ」
二人が顔を見合わせて笑ったところへ、エマが焼きたてのパンを載せた皿を運んできた。
「お話は終わった? リゼット、ちゃんと朝ご飯を食べてから出かけるのよ」
「はあい」
「昨日みたいに帰ってくるなり眠そうな顔をしていたら、今日は早く寝かせるからね」
「お母さんまで……」
リゼットが困ったように笑うと、エマは娘の前に温かなスープを置いた。
「心配くらいさせてちょうだい。あなたは面白いものを見つけると、すぐ自分のことを後回しにするんだから」
その言葉に、リゼットは反論できなかった。
ーーー
公爵家の馬車がベルニエ工房の前に到着したのは、朝食を終えて間もなくのことだった。昨日と同じく丁寧な迎えを受け、リゼットは調査記録と測定器の補助部品を鞄に収めて馬車へ乗り込んだ。
公爵邸に着くと、玄関ではオルフェンが待っていた。
「おはようございます、ベルニエ様。お越しいただきありがとうございます」
「おはようございます。公爵様のお加減はいかがですか?」
挨拶もそこそこに尋ねると、オルフェンの表情がわずかに曇った。
「……昨夜、少々お苦しそうな時間がございました」
リゼットは足を止めた。
「発作が起きたんですか?」
「はい。幸い、以前ほど長くは続きませんでしたが、夜中に胸の痛みを訴えられまして。グレゴール様にもお越しいただきました」
「グレゴール様が?」
「夜間の異変に備え、昨夜はこちらにお泊まりいただいておりました」
リゼットは思わず鞄を握り直した。昨日の夕方、ヴィンセントは穏やかな表情で話していた。測定器の数値は少しずつ元に戻り始めていたものの、強い発作が起きる兆候までは見られなかった。それでも、夜には痛みが戻ったという。
「今は落ち着いていらっしゃるんですか?」
「ええ。朝には普段どおりお話しできるまで回復されました。ただ、昨夜はほとんどお休みになれなかったようです」
リゼットは小さく頷いた。昨日の調査だけでは、やはり足りなかった。
ーーー
調査室に入ると、ヴィンセントは窓際の椅子に腰掛け、書類に目を通していた。
「おはよう、ベルニエ嬢。今日も来てくれてありがとう」
いつもどおりの穏やかな笑顔だったが、よく見ると目元には疲れが残っている。
「おはようございます。……昨夜、発作があったと伺いました」
「オルフェンから聞いたか。少し胸が痛んだだけだ。今は落ち着いている」
「少し、ですか?」
リゼットがじっと見つめると、ヴィンセントは書類を置いて笑った。
「その顔は、信用していないな?」
「昨夜ほとんど眠れなかったとも聞きました」
「……オルフェンは報告が丁寧すぎる」
「それだけ心配されているんですよ」
「君までオルフェンの味方か」
「公爵様のお身体については、そうなりますね」
その返事にヴィンセントは小さく笑った。
奥の作業台では、グレゴールが昨日の記録を広げていた。リゼットの姿に気づくと、すぐに手招きをする。
「ベルニエ嬢、こちらへ。昨夜の記録を見てもらいたい」
リゼットは鞄を置き、差し出された紙に目を通した。そこには、夜間に起きた人工心臓の不規則な動きが細かく記されていた。数値は昨日の朝に近いところまで悪化しており、一時的に制御が乱れた痕跡も残っている。
「……かなり戻っていますね」
「そうだ。昨日の接触で得られた安定は、夜まで持たなかったようだ。ただ、発作の直前から数値が悪化していたのか、発作が始まってから急激に乱れたのか、そこはまだ判断できない」
グレゴールは記録の一部を指さした。
「ここを見てくれ。制御回路の負荷が急に増しているが、魔石そのものの出力は大きく変わっていない。問題は魔力の量ではなく、流れを調整する部分にある可能性が高い」
リゼットは身を乗り出した。
「……本当ですね。だとすると、私が触れたときに安定する理由も説明できるかもしれません」
「どういうことだ?」
「私の体質は、相手の魔力を乱してしまいます。でも、人工心臓の制御が過剰に働いているとしたら、その働きが一時的に弱まることで、かえって負担が減っているのかもしれません」
グレゴールはしばらく考え込み、それから記録を見直した。
「……なるほど。通常なら有害な干渉が、異常を起こしている制御回路には別の作用をしているというわけか」
「仮説ですけど」
「いや、検証する価値はある。制御回路に直接手を加える前に、外部からの干渉で何が変わるのかを調べよう」
リゼットは頷いた。測定器の記録をもう少し細かく取れれば、変化の順番も分かるかもしれない。
「ベルニエ嬢、君の着眼点は面白いな。王宮の技師たちとは違う方向から考える」
「ありがとうございます。でも、まだ何も証明できていませんから」
「それでいい。分からないことを分かったつもりになるより、ずっといい」
グレゴールの言葉に、リゼットは嬉しそうに笑った。
それから、ヴィンセントへ向き直った。
「公爵様。その前に、お伝えしたいことがあります」
「何だ?」
「人工心臓の修理について、父と相談してきました」
ヴィンセントは書類を置き、彼女へ向き直った。リゼットは背筋を伸ばす。
「必ず直せるとはお約束できません。でも、私にできることは全部やってみたいんです。……公爵様の人工心臓、修理をお引き受けします」
ヴィンセントの表情が止まった。
ほんの一瞬、いつもの余裕ある笑みが消える。リゼットは、何か言い方を間違えただろうかと不安になったが、次の瞬間、彼はゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
短い返事だった。
それからヴィンセントは、改めてリゼットを見つめた。
「ありがとう、ベルニエ嬢。正直に言えば、断られる可能性も考えていた。君に引き受けてもらえて、本当に心強い」
いつも軽やかに言葉を返してくる彼が、今は少しだけ慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「まだ分からないことばかりですけど、グレゴール様や父とも相談しながら進めたいと思っています」
「もちろんだ。必要な資料も設備も、遠慮なく言ってくれ」
「ただ、修理の途中で危険があると判断したら、その方法は中止させてください。公爵様のお身体が最優先です」
「ああ。君たちの判断に従おう」
グレゴールも頷いた。
「人工心臓の仕組みについては、こちらで分かっていることをすべて共有する。王宮の資料も改めて確認しよう」
「ありがとうございます」
リゼットはほっと息をついた。
「では、正式な契約についてはオルフェンに任せよう。ベルニエ工房にも、きちんと依頼を出す」
「はい。よろしくお願いします」
こうして、ベルニエ工房は公爵家からの修理依頼を正式に引き受けることになった。
ーーー
測定の準備を終えると、リゼットはヴィンセントの隣に椅子を置いた。
「公爵様、今は胸の違和感がありますか?」
「ああ。昨夜ほどではないが、いつもの重さは戻っている」
「分かりました。では、昨日と同じように手をお借りしますね」
右手の手袋を外し、ヴィンセントが差し出した手を取る。その瞬間、測定器の針が反応した。
グレゴールが記録を取り始める横で、リゼットは数値の変化を注意深く見守った。今日は制御回路の負荷と魔石の出力を分けて記録しているため、どの部分が先に変化するのかも確認できる。
「……制御回路の負荷が先に下がっていますね」
「そうだな。魔石の出力にはほとんど変化がない。やはり、君の体質が制御部分に作用している可能性がある」
「公爵様、どうですか?」
ヴィンセントはゆっくりと息を吸った。
「……楽になるな。胸の奥にあった重さが、少しずつ消えていく」
声には、隠しきれない安堵が混じっていた。
「痛みはありませんか?」
「ない。昨夜のことが嘘のようだ」
リゼットはほっと息をつき、再び測定器へ視線を戻した。
しばらくすると、グレゴールが時計を確認した。
「昨日より接触時間を延ばしてみよう。制御回路がどこまで安定するか、もう少し観察したい」
「はい。公爵様、よろしいですか?」
「もちろんだ。私としても、この方がずっと楽だからな」
ヴィンセントは繋いだ手を軽く握り直した。リゼットは測定器に集中したまま、その手を離さなかった。
ヴィンセントはそんな彼女を横目で見た。昨日から何度も手を繋いでいるが、彼女にとっては調査の一環なのだろう。自分の手を握っていることより、測定器の針がどう動くかの方がよほど重要らしい。
けれど、こうして楽になったと伝えれば、心から安心した顔をする。その素直さが、彼には少し新鮮だった。
ーーー
午前の調査がひと区切りついた頃、グレゴールは記録を机に広げ、大きく息を吐いた。
「……接触中の安定は確認できた。だが、問題はそのあとだな」
「はい。昨日も、時間が経つにつれて数値が戻っていました」
リゼットは手帳を開き、昨夜の記録と並べてみた。
「公爵様の人工心臓は、夜間にも急に状態が悪くなるんですよね。昨日は夕方まで調査していましたけど、そのあと何が起きるかまでは確認できませんでした」
「そうだ。昨夜の発作も、私が気づいたときにはすでに始まっていた。発作の直前にどんな変化があったのか、正確には分からない」
グレゴールは腕を組んだ。
「夜間の記録も必要だ。それに、発作が起きたときにすぐ対応できるかどうかも重要になる。今のところ、ベルニエ嬢の接触が最も明確な改善を示しているからな」
リゼットは考え込んだ。昼間にどれほど詳しく調べても、夜の状態が分からなければ見落としてしまうことがあるかもしれない。
「……夜も調査するとなると、しばらく通う時間を変えた方がいいでしょうか」
「それもひとつの方法だが、夜中に発作が起きた場合は……」
グレゴールが言いかけたところで、ヴィンセントが口を開いた。
「それなら、ここに滞在してもらえばいい」
リゼットは顔を上げた。
「……はい?」
「公爵邸に部屋を用意する。そうすれば、夜間の状態も確認できるだろう」
あまりにも自然な口調だったので、リゼットは一瞬、意味を理解できなかった。
「……ここに、ですか?」
「ああ」
「私が?」
「他に誰がいる?」
ヴィンセントは不思議そうに首を傾げた。
リゼットは思わずグレゴールを見たが、彼はすでに真剣な顔で考え込んでいた。
「……確かに、それが最も合理的かもしれないな」
「グレゴール様まで!」
「夜間の発作に備えるという意味では、有効な方法だ。ただし、君の負担を考える必要はある」
リゼットは二人を交互に見つめた。確かに、夜間の調査が必要なのは分かる。自分がそばにいれば、ヴィンセントの状態が急に悪くなったときにも、すぐに対応できるかもしれない。けれど、それとこれとは話が別だ。
「待ってください。私は工房の仕事もありますし、両親にも相談しないと……」
「もちろん、君の都合を無視するつもりはない」
ヴィンセントは落ち着いた声で答えた。
「ただ、夜中に発作が起きるたび、君の家まで馬車を走らせるわけにもいかないだろう。調査のためにも、しばらくここにいてもらえれば助かる」
「それは……そうですけど」
リゼットは言葉に詰まった。ヴィンセントの言うことは、確かに筋が通っている。だが、いきなり公爵家に住み込むことになるとは思ってもみなかった。
「それに、工房の仕事は続けたいんです。父と一緒に引き受けている修理もありますし、途中のものも残っています」
「なら、ここで仕事ができるようにすればいい」
「……え?」
「必要な設備を教えてくれ。作業場を用意させよう」
リゼットは瞬きをした。
「作業場、ですか?」
「ああ。君が普段使っている工具や測定器も必要だろう。足りないものがあれば揃える」
「いえ、あの……そんな簡単に……」
「簡単ではないのか?」
ヴィンセントは本気で不思議そうな顔をした。
リゼットはしばらく言葉を探した。公爵家に作業場を用意する。それも、どうやら机をひとつ借りる程度の話ではないらしい。
「……公爵様。工房って、そんなにすぐ用意できるものじゃないんですよ?」
「時間が必要なら待とう。まずは使える部屋を確保して、必要な設備から整えればいい」
「そういう問題では……」
「工房の依頼品をこちらへ運ぶこともできるし、必要なら君が実家へ戻るのも構わない。仕事を辞めてもらうつもりはないからな」
あまりにも当然のように言われ、リゼットは口を閉じた。自分の仕事を続けたいという希望を、ヴィンセントは否定しなかった。それどころか、そのための場所まで用意すると言っている。
ありがたい話なのは間違いない。けれど、規模が大きすぎる。
「……一度、父に相談させてください」
ようやくそう答えると、ヴィンセントは微笑んだ。
「もちろんだ。君と父君の返事を待とう」
グレゴールも頷いた。
「私からも、調査の必要性について説明しよう。ベルニエ工房の仕事に支障が出ないよう、条件を整える必要があるな」
「はい。それに、私が滞在することで公爵様のお身体に本当に良い影響があるのか、まだ十分に分かっていませんから」
「そのとおりだ。接触による改善は確認できているが、安全性も含めて、引き続き慎重に調べよう」
リゼットは頷いた。それから、ヴィンセントへ視線を向けた。
「公爵様。ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「何だ?」
「私が滞在することになったとしても、無理な調査はしないと約束してください。公爵様のお身体に負担がかかることは、避けたいんです」
ヴィンセントは少し意外そうに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「分かった。君とグレゴールに従うよ」
「ありがとうございます」
リゼットは安心したように微笑んだ。
ヴィンセントは、机の上に広げられた記録へ目を向けた。王宮の技師たちにも原因を突き止められなかった人工心臓の異常を、目の前の修理師は自分の体質さえ手がかりにして調べようとしている。修理を引き受けると言いながら、危険な方法には手を出さないと最初にはっきり告げた。
その慎重さと大胆さの組み合わせが、彼には頼もしく思えた。
「……では、正式な条件はオルフェンと相談しておこう」
ヴィンセントが言うと、リゼットは慌てて顔を上げた。
「まだ決まっていませんからね?」
「分かっている。準備をしておくだけだ」
「その準備が、ちょっと心配なんですけど……」
「心配するな。必要なものを揃えるだけだ」
ヴィンセントは実に爽やかな笑顔で答えた。
リゼットはその笑顔を見つめ、何となく嫌な予感がした。公爵様の言う『必要なもの』が、自分の想像する範囲に収まっているとは、どうしても思えなかったからだ。




