第4話 予想外の回復
ヴィンセントは、しばらく自分の右手を見つめていた。
つい先ほどまで胸を締めつけていた痛みが、嘘のように消えている。十年前、人工の心臓を埋め込んでから、身体の奥には常に微かな違和感があった。普段は意識しない程度のものだが、最近はそれが重苦しさに変わり、時折、呼吸さえままならなくなる。
ところが今は、その重苦しさまで薄れていた。
発作が治まっただけではない。胸の奥に長く居座っていた何かが、ふっと軽くなったような感覚だった。
「公爵様、お立ちになれますか」
グレゴールが肩を支えながら声をかける。
「ああ。もう大丈夫だ」
そう答えながらも、ヴィンセントの意識は別のところに向いていた。
発作が起きたとき、何があったのか。
立ち上がろうとしたところで胸に激痛が走り、足元がふらついた。倒れかけた身体をリゼットが支えてくれたことは覚えている。
そして、彼女の手を握っていた。
視線を上げると、リゼットが青ざめた顔で自分の右手を見つめている。そういえば、先ほど手袋について尋ねたときも、どこか答えにくそうにしていた。
ヴィンセントは自分の手と、彼女の手を交互に見た。
「リゼット嬢」
「はい」
「少し、確かめたいことがある」
「確かめたいこと、ですか?」
ヴィンセントは返事の代わりに、彼女の右手を取った。
「……っ!?」
リゼットが息を呑む。
「こ、公爵様!?」
「なるほど……」
触れた瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。痛みはすでに消えていたが、それとは別に、わずかに残っていた圧迫感が和らいでいくのを感じた。
気のせいだろうか。
ヴィンセントは彼女の手を握ったまま、ゆっくりと息を吸った。先ほどよりも、さらに呼吸がしやすい。
「公爵様、手を離してください!」
リゼットは慌てて手を引こうとした。けれど、ヴィンセントが何かを確かめるように黙り込んでいるため、ますます不安が募ってしまう。
彼の心臓は魔導具だ。普通の人にさえ悪影響を及ぼす自分の体質が、そんなものに触れてしまったらどうなるのか。
まして、相手は一度心臓を失い、人工の心臓によって命を繋いでいる人なのだ。
「公爵様、お願いですから!」
「……やはり、そうか」
「何がですか!」
「公爵! いったい何をなさっているのです!」
グレゴールも、突然の行動に目を剥いていた。
先ほどまで床に崩れ落ちていた公爵が、今度は若い修理師の手を握って何やら考え込んでいる。心臓の状態を確認しようにも、当の本人はまったく別のことに夢中らしい。
「少し確認をしている」
「何の確認ですか!」
「それは今から考える」
「考える前に手を離してください!」
リゼットの切羽詰まった声に、ヴィンセントはようやく彼女へ目を向けた。
「……君は、私に触れると困るのか?」
「困ります! 私は直接人に触れると、その人の魔力を乱してしまうんです! 公爵様の心臓は魔導具なんですよ!?」
勢いに任せてそこまで言い切り、リゼットははっと口を閉じた。
本当なら、もっと慎重に説明するべきことだった。けれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「なるほど。そういうことか」
ヴィンセントは興味深そうに頷いた。
「ですから、手を離してください!」
リゼットがもう一度手を引くと、今度はあっさり離してくれた。
彼女はすぐに右手を引っ込め、机の上に置いた手袋を掴んだ。指先がわずかに震えていて、いつもなら何でもない手袋をはめる動作にさえ手間取ってしまう。
「壊れたらどうするんですか……!」
「それは困るな」
「他人事みたいに言わないでください!」
「私の心臓だから、他人事ではないつもりなんだが」
そう答えるヴィンセントは、少しも困っているようには見えなかった。
むしろ、何か面白いものを見つけたときのように、金色の瞳を輝かせている。
リゼットは呆然と彼を見つめた。
この人は、自分の心臓がどれほど危険な状態にあるのか、本当に分かっているのだろうか。
いや、分かっているはずだ。十年間、その心臓と付き合ってきたのは彼自身なのだから。
それなのに、どうしてそんなに楽しそうなのか。
「……公爵様。今、お身体に異変はありませんか?」
「異変ならある」
リゼットの心臓が跳ねた。
「どこがですか? 痛みですか? 息苦しさは?」
「いや。驚くほど調子がいい」
「…………」
リゼットは返す言葉を失った。
その隣で、グレゴールが深々と眉間に皺を寄せている。
「公爵。そろそろ、私にも分かるように説明していただけませんかな」
ヴィンセントは自分の右手を見下ろした。
つい先ほどまで彼女に触れていた手には、当然ながら何の変化もない。だが、触れている間だけ、胸の奥にあった違和感が確かに和らいだ。
魔導具の仕組みは分からない。なぜそんなことが起きるのかも、まったく見当がつかなかった。
それでも、自分の身体に起きた変化くらいは分かる。
「どうやら、面白いことが分かってきたようだ」
「私には何ひとつ分かりませんぞ!」
グレゴールの声が部屋に響いた。
リゼットはようやく手袋をはめ終えると、今度こそ両手を胸元に引き寄せた。
目の前の公爵は、相変わらず楽しそうに笑っている。
自分がこれほど恐れていることを、どうしてこの人は平然と受け止められるのだろう。
リゼットには、それが何より不思議だった。
「……まず、確認させていただきたい」
グレゴールはこめかみを押さえ、ヴィンセントへ向き直った。
「先ほどの発作は、間違いなくいつものものだったのですな?」
「ああ。むしろ、最近ではかなり強い方だった」
「それが、突然治まったと」
「そうだ」
「そして今は、痛みも息苦しさもない?」
「驚くほど快適だ」
あまりにあっさりとした返答に、グレゴールは深く息を吐いた。
「……十年間、あれほど苦労してきたというのに」
「君にはずいぶん世話をかけたな」
「過去形にしないでいただきたい。まだ何も解決しておりませんぞ」
「それもそうか」
ヴィンセントが笑うと、グレゴールは呆れたように首を振った。
それから、今度はリゼットへ目を向ける。
「ベルニエ嬢。先ほど、触れた相手の魔力を乱すと言っていたな」
「……はい」
リゼットは両手を握りしめた。
できれば、こんな形で知られたくはなかった。けれど、口にしてしまった以上、今さら取り消すこともできない。
「私は生まれつき魔力がありません。それに、直接人に触れると、その人の魔力の流れを乱してしまうんです。普通なら、体調を崩したり、ひどい場合には倒れてしまうこともあります」
「魔力がないだけでなく、他人の魔力に干渉する……?」
グレゴールは眉を寄せた。
「そのような体質があるとは聞いたことがない」
「私も、自分以外には会ったことがありません」
「……少し、試してもいいか?」
「え?」
リゼットが目を瞬かせると、グレゴールは真剣な顔で自分の右手を差し出した。
「私にも触れてみてくれ」
「…………はい?」
「公爵にはむしろ良い変化が起きたようだ。ならば、普通の人間にはどのような影響があるのか、実際に確かめておきたい」
「いや、あの……危険ですよ?」
「承知している。ほんの一瞬でいい。異変があればすぐに離す」
グレゴールの目は、すっかり研究者のものになっていた。
リゼットは助けを求めるようにヴィンセントを見たが、彼は面白そうに二人を眺めている。
「……公爵様?」
「グレゴールは昔からこういう男だ」
「止めてくださらないんですか!?」
「本人があれだけやる気なんだ。私が止めても聞かないだろう」
「よくご存じで」
グレゴールが当然のように頷く。
リゼットは頭を抱えたくなった。
この屋敷には、自分の身体をもう少し大切にしようという人はいないのだろうか。
「……本当に、一瞬だけですよ」
「もちろんだ」
グレゴールは満足げに頷いた。
リゼットは恐る恐る右手の手袋を外し、差し出された手に指先を触れさせた。
ほんの一瞬だった。
「……っ!」
グレゴールが息を詰め、反射的に手を引いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……なるほど」
「なるほどじゃありません!」
思わず叫んだリゼットの横で、ヴィンセントが吹き出した。
「君まで同じことを言うのか」
「笑い事じゃありません!」
グレゴールは自分の手を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。
「……妙な感覚だな。魔力を無理やり掻き回されたような……いや、引っ張られたというべきか」
「気分は悪くありませんか?」
「少々な。だが、もう治まりつつある」
リゼットはほっと息を吐いた。
グレゴールはそれとは対照的に、ますます興味を深めた様子で顔を上げる。
「これは実に興味深い……!」
「興味深いで済ませないでください!」
「いや、すまん。だが、これほど特殊な現象は初めてだ」
「私にとっては、いつものことなんですけど……」
リゼットが小さく呟くと、ヴィンセントが口元に笑みを浮かべた。
「君のいつもは、なかなか刺激的らしい」
「好きでこうなっているわけではありません!」
「それは失礼」
まったく反省していない顔だった。
グレゴールはしばらく考え込んでいたが、やがてヴィンセントへ向き直った。
「……公爵。もう一度、ベルニエ嬢の手に触れていただけますかな」
リゼットは勢いよく顔を上げた。
「グレゴール様まで何をおっしゃるんですか!」
「もちろん、測定器で状態を確認しながらだ。異常が出ればすぐに中止する」
「でも……」
「君の心配は分かる」
ヴィンセントが口を開いた。
「だが、私自身も確かめたい。さっき感じたことが偶然だったのか、それとも本当に君に触れたからなのか」
リゼットは彼の顔を見た。
いつもの余裕のある表情だったが、その金色の瞳は真剣だった。
十年間抱えてきた不調が、突然和らいだ。
その理由を知りたいと思うのは、当然なのかもしれない。
「……本当に、少しだけですよ」
「分かった」
「何かおかしいと思ったら、すぐに離してください」
「約束する」
リゼットはまだ不安そうだったが、グレゴールが測定器を準備するのを見て、小さく息を吐いた。
今度は、何が起きるのかを確かめるための接触だ。
彼女は右手の手袋を外し、ヴィンセントへ差し出した。
すると彼は、その手をためらいなく握った。
リゼットはヴィンセントの表情を注意深く見守った。人工心臓に異変が起きたら、すぐに手を離さなければならない。
「……どうですか?」
ヴィンセントはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吸い込む。
「……ああ。やはり、楽になる」
グレゴールが測定器を覗き込んだ。
「……何だ、これは」
針の動きが、明らかに変わっていた。
先ほどまで不規則に揺れていた針が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「えっ、ちょっと待ってください。こんなに変わるんですか?」
リゼットは思わず身を乗り出した。もっと近くで針を確かめようとした拍子に、ヴィンセントの手までぐいっと引っ張ってしまう。
「おっと」
ヴィンセントの身体が少し前へ傾いた。
けれど、リゼットはまったく気づいていない。
「グレゴール様、さっきの数値はいくつでしたっけ? この位置で大きく振れていましたよね?」
「ああ、そうだ。だが今は……」
「振れ幅が半分以下になっています。こんなに急激に変化するなんて……」
リゼットは手帳と測定器を交互に見比べ、食い入るように針の動きを追った。
「ベルニエ嬢」
「はい、少し待ってください。今の動きを記録しておきたいので」
「構わないが、私も一緒に記録されそうだ」
「……え?」
顔を上げると、ヴィンセントがすぐ近くにいた。
そこで初めて、自分が彼の手を握ったまま、測定器の方へ引っ張っていたことに気づく。
「あ……失礼しました。つい夢中になってしまって」
「見ていれば分かる」
ヴィンセントは楽しそうに笑った。
「君は魔導具を前にすると、周りが見えなくなるらしい」
「いつもではありませんよ。興味深いものを見つけたときだけです」
「それなら、私の心臓は合格ということか」
「合格どころじゃありません。こんな構造、ほかでは絶対に見られませんから」
言い切ってから、リゼットは少しだけ眉を下げた。
「……もちろん、喜んでばかりもいられませんけど」
「分かっている」
ヴィンセントは穏やかに頷いた。
その返事に、リゼットは安心したように笑い、再び測定器へ視線を戻した。
グレゴールは二人のやり取りなど耳に入っていない様子で、次々と数値を書き留めている。
「ベルニエ嬢、今は何もしていないな?」
「はい。ただ手を繋いでいるだけです」
「それだけで、これほど変わるとは……」
グレゴールは信じられないものを見るように測定器を見つめた。
ヴィンセントは二人の反応を眺めながら、わずかに笑みを深めた。
自分が手を取れば、たいていの女性は多少なりとも意識するものだ。そうした反応には慣れているし、自分がどう見られているかも承知している。
ところが、目の前の修理師は違った。
最初は心臓への影響を恐れて顔色を変え、危険がないと分かれば、今度は測定器に夢中になっている。手を繋いでいることなど、すっかり頭から抜け落ちているらしい。
これほど遠慮のない扱いを受けたのは、いつ以来だろう。
不思議と悪い気はしなかった。
「……もう離しても大丈夫でしょうか」
リゼットが測定器から顔を上げた。
「そうだな。十分に確かめられた」
ヴィンセントが手を離すと、リゼットはすぐに手袋をはめ直した。グレゴールはその間も測定器から目を離さず、針の動きを注意深く観察している。
「……どうだ?」
ヴィンセントが尋ねると、グレゴールは難しい顔をした。
「妙ですな。手を離しても、数値が安定したままです」
「えっ?」
リゼットも測定器を覗き込んだ。
確かに、先ほどまで大きく乱れていた針は、穏やかな動きを保っている。多少の変化は見られるものの、発作が起きる前とは明らかに違っていた。
「公爵様、お身体はどうですか?」
「変わらず快調だ。胸の重苦しさも戻っていない」
ヴィンセントは確かめるように深く息を吸い、満足そうに笑った。
「これはいい。十年ぶりに身体が軽くなった気分だ」
「……十年ぶり、ですか」
リゼットが小さく繰り返すと、ヴィンセントは何でもないことのように頷いた。
「普段は気にならない程度だったが、ずっと胸の奥に何かが引っかかっているような感覚があった。それが今はない」
リゼットは返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。
グレゴールは測定器の数値を書き留めると、興奮を隠しきれない様子で顔を上げた。
「接触をやめても改善した状態が続くとは……。これは、時間を置いて経過を確認する必要がありますな!」
「そうですね。どれくらい続くのかも分かりませんし、後から悪い影響が出る可能性もあります」
リゼットの慎重な言葉に、ヴィンセントは頷いた。
「では、今日はこのまま様子を見よう。少なくとも、今すぐ悪くなる気配はない」
「公爵様は、もう少し危機感を持ってください」
「十分持っているつもりだ。だからこそ、君たちに調べてもらっている」
そう返されると、リゼットもそれ以上は言い返せなかった。
グレゴールは記録をまとめながら、何度も測定器を確かめている。先ほど自分が触れたときの不快感など、すっかり忘れてしまったようだった。
リゼットはそんな二人を眺め、そっと息を吐いた。
これまで、自分の体質は誰かを傷つけるかもしれない、厄介なものだった。
それが今、目の前の公爵を楽にしている。
まだ理由は分からないし、安全だと決まったわけでもない。それでも、ヴィンセントが穏やかに呼吸している姿を見ていると、胸の奥に不思議な気持ちが広がった。
誰かに触れることが、こんな結果を生むなんて。
リゼットは手袋に包まれた右手を、そっと握りしめた。
「……ところで、ベルニエ嬢。今日はこのあと予定があるか?」
ヴィンセントの問いかけに、リゼットは顔を上げた。
「いえ、特には。工房へ戻って、父と今日の結果を確認するつもりでしたが」
「なら、もう少し付き合ってもらいたい」
「調査ですか?」
「ああ。君と接触したあと、どの程度まで状態が保たれるのか確かめたい。できれば、夕方まで」
「夕方まで……?」
リゼットは窓の外を見た。朝早くに工房を出たというのに、いつの間にかずいぶん時間が経っている。
「もちろん、無理にとは言わない。工房にはこちらから連絡を入れよう。今日の調査についても、きちんと報酬を支払う」
「いえ、報酬のことは……」
「仕事を頼んでいるんだ。そこは遠慮しなくていい」
さらりと言われ、リゼットは少し考えた。
確かに、今後の修理を考えるなら、時間を置いたあとの変化も知っておきたい。それに、グレゴールが測定器の前から離れようとしない以上、ここで帰るのも少し気が引ける。
「……分かりました。では、もう少し調べさせてください」
「助かる」
ヴィンセントが満足そうに頷く。
リゼットは改めて、机の上に並んだ測定器と記録を見つめた。
人工心臓の不調を調べに来たはずが、思いもよらない現象に行き当たってしまった。
しかも、その原因が自分自身にあるかもしれないなんて。
まだ分からないことばかりだ。それでも、ひとつだけ確かなことがある。
今日の調査は、どうやら簡単には終わりそうになかった。




