第3話 触れてはいけない手
「ベルニエ工房のリゼット・ベルニエです。本日はよろしくお願いいたします」
リゼットが頭を下げると、向かいに立つ壮年の男性は、値踏みするように彼女を見た。
「王宮魔導技師長のグレゴールだ。君の腕については以前から耳にしていた。まさか、これほど若いとは思わなかったが」
「よく言われます」
「そうだろうな」
グレゴールは短く笑い、机の上に広げていた図面へ視線を落とした。
そこには、複雑な魔法陣と細かな回路が幾重にも描かれている。リゼットも工房で数えきれないほどの魔導具を見てきたが、これほど精緻な設計図を目にするのは初めてだった。
「これが、公爵様の心臓の設計図ですか?」
「ああ。十年前、陛下の命で製作されたものだ。中心にあるのは古代の魔石で、心臓そのものの働きと、全身へ魔力を循環させる役割を担っている」
グレゴールは図面の中央を指し示した。
「通常の魔導具なら、魔石を取り外して調べることもできる。だが、これはそうはいかん。魔石を停止させれば、公爵の心臓も止まる」
「つまり、動かしたまま調べる必要があるんですね」
「そのとおりだ。しかも、外から魔力を流し込む通常の検査では、回路に余計な負荷をかけるおそれがある」
リゼットは図面を覗き込み、しばらく考えた。
十年前に作られたとは思えないほど高度な構造だ。回路の配置にも無駄がなく、魔力の流れを安定させるための工夫が随所に見られる。
だからこそ、原因が分からないのだろう。
「……魔力を流し込まずに、調べる方法ならあります」
グレゴールが顔を上げた。
「何?」
「魔導具から自然に漏れ出す、ごくわずかな魔力を読み取る方法です。父と一緒に作った測定器があるんですが、少し改良すれば使えるかもしれません」
「そんなものがあるのか?」
「はい。ただ、普通の測定器ほど詳しい数値は取れません。魔力の流れに異常があるかどうかを、外側から確かめるためのものです」
グレゴールは腕を組み、興味深そうに彼女を見つめた。
「なるほど。こちらから魔力を送らず、漏れ出したものだけを拾うわけか」
「そうです。直接触れることもありませんから、負担は少ないはずです」
「面白い。実物はあるのか?」
「持ってきています」
リゼットが鞄から小さな木箱を取り出すと、それまで静かに話を聞いていたヴィンセントが口を開いた。
「どうやら、私の出番らしいな」
「公爵様には、椅子に座っていただくだけで結構です」
「それはありがたい。私に難しい作業を求められても困るからね」
「難しい作業は、こちらでいたしますので」
「頼もしい限りだ」
ヴィンセントが楽しげに笑う一方、グレゴールは呆れたように息をついた。
「公爵。少しはご自身の身体のことを真剣にお考えください」
「十分に考えているとも」
「でしたら、発作が起きた翌日に平然と執務へ戻るのをおやめいただきたい」
「仕事は待ってくれないからね」
「心臓も待ってはくれませんぞ」
「……違いない」
二人のやり取りに、リゼットは思わず口元を緩めた。
王宮魔導技師長と公爵という立場を考えれば、ずいぶん気安い会話だ。けれど、グレゴールの厳しい言葉には明らかな心配がにじんでおり、ヴィンセントもそれを分かっているようだった。
リゼットは測定器を取り出し、机の上に並べた。
手のひらほどの薄い金属板に、小さな魔石と細い針が組み込まれている。見た目は地味だが、魔力の微細な変化を拾うために何度も調整を重ねたものだ。
「では、公爵様。少しの間、そのままでお願いします」
「承知した」
リゼットは測定器をヴィンセントの胸元へ向けた。もちろん、身体には触れない。
針がわずかに揺れ、目盛りの上をゆっくりと動き始める。
「……動いた」
グレゴールが身を乗り出した。
「外部から魔力を加えていないのに、ここまで拾えるとは」
「まだ精度は十分ではありません。ですが、流れの変化を見ることはできます」
リゼットは針の動きを見つめながら、手帳に数値を書き込んだ。
最初は規則正しく動いていた針が、ある位置で小さく震えた。いったん戻り、再び同じ場所で揺れる。
「ここ……」
「何か分かったか?」
「少し気になる動きがあります」
リゼットは図面と測定器を交互に見比べた。
「この回路には、魔力が集中しすぎた場合に別の経路へ逃がす仕組みがありますよね?」
「ああ。魔石への負荷を減らすための迂回路だ」
「でも、測定結果を見る限り、うまく逃げていないように思えます」
グレゴールの表情が変わった。
「迂回路が機能していないということか?」
「まだ断定はできません。ただ、魔力が流れ込む量に対して、出ていく量が少ないような……」
リゼットは言葉を切り、もう一度図面を確かめた。
「いえ。少し違いますね」
「違う?」
「魔力が詰まっているだけなら、もっと単純な反応になるはずです。これは……流れが押し戻されているように見えます」
グレゴールは黙って図面を覗き込んだ。
「制御回路の問題か」
「可能性はあります。でも、この測定器では細かいところまで分かりません」
「いや、十分だ。これまで我々が確認できなかった現象を捉えている」
思いがけない評価に、リゼットは少し驚いた。
「ありがとうございます。でも、まだ測定器の誤差かもしれません」
「だからこそ、確かめる価値がある」
グレゴールはそう言って、机の上の測定器を見つめた。
「君の父親も、なかなか面白いものを作る」
「父が基本の構造を考えて、私が細かい調整を担当しました。二人で何度も失敗したんです」
「失敗した数だけ、改良したわけだな」
「はい。父には、もう少し普通のものを作れと言われましたけど」
「普通のものなら、王宮にも山ほどある」
その言葉に、リゼットは思わず笑った。
ヴィンセントも二人の会話を興味深そうに聞いていたが、やがて測定器へ視線を向けた。
「その小さな道具で、ずいぶん多くのことが分かるんだね」
「分からないことの方が多いですよ」
「それでも、グレゴールがここまで楽しそうにしているのは久しぶりに見た」
「楽しんでいるわけではありません」
「そうかな。新しい玩具を与えられた子どものような顔をしているが」
「公爵」
グレゴールの低い声に、ヴィンセントは涼しい顔で微笑んだ。
リゼットは笑いをこらえながら、測定器を手元へ引き寄せた。
「少しだけ、針の感度を変えてもいいでしょうか。もう一度測れば、違いが分かるかもしれません」
「構わない。必要なことをしてくれ」
グレゴールの許可を得て、リゼットは小さな調整具を取り出した。
測定器の側面には、針の感度を変えるための極小のねじがある。普段は手袋をしたまま扱えるが、今回はほんのわずかな調整が必要だった。
リゼットは右手の手袋を外し、指先で小さな調整具をつまんだ。細いねじを慎重に回し、針の位置を確かめる。
「……これなら」
もう一度測定器を向けると、先ほどよりも針がはっきりと動いた。
リゼットは息を詰めてその変化を追った。
やはり、同じ場所で流れが乱れている。それも、魔力が単純に不足しているのではない。一定の間隔で押し戻され、別の経路へ流れ込もうとしている。
「グレゴール様。こちらを見てください」
「どれ」
「ここで針が戻りますよね。次の瞬間、反対側に大きく振れるんです」
「……確かに」
「制御回路が、魔力の流れる方向をうまく調整できていないのかもしれません」
グレゴールはしばらく黙り込み、やがて深く頷いた。
「その可能性は考えるべきだな。だが、原因が分かったとしても、内部の回路をどう修復するかは別の問題だ」
「はい。心臓を止めずに作業する方法も考えなくてはいけません」
リゼットは測定器を下ろした。
調べれば調べるほど、難しい依頼だと分かる。普通の魔導具なら分解して修理できる部分も、この心臓ではそうはいかない。わずかな失敗が命に関わる以上、思いつきだけで手を出すわけにはいかなかった。
「本日の検査で、いくつか可能性は見えてきました。ただ、私に修理できるかどうかは、まだお約束できません」
リゼットが顔を上げると、ヴィンセントは静かに頷いた。
「もちろんだ。無理に引き受けてもらおうとは思っていない」
「測定結果を持ち帰って、父とも相談させてください。修理の方法だけでなく、必要な道具や安全性も検討したいんです」
「分かった。必要な資料があれば、グレゴールを通して用意しよう」
「ありがとうございます」
「ただし、無理だと思ったら遠慮なく言ってほしい。私の心臓のために、君に危険な仕事を押しつけるつもりはないからね」
その言葉は、リゼットが思っていたよりもずっと穏やかだった。
依頼人が公爵である以上、断ることが難しいのではないかと、少しばかり心配していたのだ。
「承知しました。ですが、まだ諦めるつもりもありません」
「それは心強い」
ヴィンセントが笑うと、リゼットもつられて微笑んだ。
検査を終え、ヴィンセントが椅子から腰を上げる。リゼットも机の上に置いた右手の手袋を取ろうとした。
そのときだった。
「そういえば、リゼット嬢」
「はい?」
「その手袋には、何か特別な意味があるのかな?」
伸ばしかけた手が止まった。
「……手袋、ですか?」
「ああ。先ほどから気になっていたんだ。細かな作業のとき以外は、ずっと着けているようだから」
何気ない質問だった。
ヴィンセントに悪気がないことは、その表情を見れば分かる。それでも、リゼットはすぐに答えられなかった。
手袋を着ける理由を説明するには、自分の体質について話さなければならない。
人に触れると、相手の魔力を乱してしまうこと。
それが、時には命に関わること。
公爵の心臓を調べに来た修理師が、そんな体質を持っていると知ったら、どう思われるだろう。
「それは、その……」
リゼットが言葉を探していると、ヴィンセントの表情がふっと変わった。
笑みが消え、片手が胸元へ伸びる。
「……っ」
小さく息を詰めたかと思うと、ヴィンセントの身体がぐらりと傾いた。
「公爵様?」
「ヴィンセント様!」
グレゴールが声を上げる。
ヴィンセントは椅子の肘掛けをつかもうとしたが、その手は空を切った。身体が前へ倒れる。
考えるより先に、リゼットは手を伸ばしていた。
「危ない!」
咄嗟にヴィンセントの手をつかみ、もう片方の手で腕を支える。
けれど、大柄な男性の身体を受け止めるには、リゼットの力では足りなかった。
「きゃっ……!」
二人の身体が傾き、リゼットは彼の手を握ったまま床へ座り込んだ。
ヴィンセントも膝をつくように崩れ落ちたが、すぐに苦しげな呼吸が和らぎ始めた。
「公爵! しっかりなさってください!」
駆け寄ったグレゴールが肩を支えると、ヴィンセントはゆっくりと顔を上げた。
「……妙だな」
その声には、いつもの余裕とは違う、わずかな戸惑いがあった。
「公爵様? お身体は大丈夫ですか?」
リゼットが尋ねると、ヴィンセントは何度か瞬きをした。先ほどまで胸を押さえていた本人が、一番状況を理解できていないようだった。
「……痛みが消えた」
「何ですと?」
「私にも分からない。だが、確かに……」
ヴィンセントは何度か瞬きをすると、信じられないものを見るように自分の胸元へ視線を落とした。
その様子にリゼットも少しだけ安堵したが、ふと、握ったままの手に視線を落とした。
右手に、手袋がない。
数秒間、ヴィンセントの素手を握り続けていたのだ。
リゼットは息を呑み、慌ててその手を離した。
幸い、目の前の彼は苦しそうには見えない。けれど、だからといって安心していいのかは分からなかった。
リゼットは自分の右手を見つめ、そっと握りしめた。




