第2話 完璧公爵様と若き修理師
ヴァルクレイン公爵邸は、リゼットが想像していた以上に大きかった。
王都の貴族街でもひときわ広い敷地を持つその屋敷は、正門から玄関まで馬車で進まなければならないほど奥行きがあり、手入れの行き届いた庭園には季節の花々が咲き誇っていた。磨き上げられた窓には青空が映り、左右対称に伸びる白い外壁は、まるで絵画に描かれた宮殿のようだ。
「……すごい」
馬車の窓から外を眺めていたリゼットは、思わず小さく呟いた。
王宮からの使者が訪れた翌日、彼女は正式な招待状を手に、公爵邸へ向かうことになった。依頼の詳しい内容は直接説明するということで、事前に知らされたのは、極めて特殊な魔道具の修理について相談したいということだけだった。
父のロランは最後まで同行すると言い張っていたが、工房には引き渡しを待つ品がいくつもある。結局、リゼットが一人で行くことになり、出発前には両親から何度も注意を受けた。
『無理な仕事は引き受けるな。分からないことはその場で返事をするな昼食はきちんと食べろ』
最後の一つについては、父にも同じことを言ってほしいと思ったものの、母がすでに言い聞かせていたので黙っておいた。
やがて馬車が玄関前に停まり、御者が扉を開けた。
リゼットは深く息を吸い、膝の上に置いていた鞄を持ち上げる。中には使い慣れた工具と筆記具、それから父が念のために持たせてくれた簡易測定器が入っていた。
玄関では、銀髪をきれいに撫でつけた年配の男性が待っていた。
「ようこそお越しくださいました。リゼット・ベルニエ様でいらっしゃいますね」
「はい。本日はお世話になります」
「私は当家の執事を務めております、オルフェンと申します。どうぞこちらへ」
オルフェンは穏やかな笑みを浮かべ、屋敷の中へと案内した。
広々とした玄関ホールには大きな階段があり、天井から吊るされた魔導灯が柔らかな光を放っている。廊下の壁には美しい絵画が並び、足元には厚い絨毯が敷かれていた。
リゼットは思わず天井の魔導灯を見上げた。装飾の美しさもさることながら、あれほど大きな照明を安定して動かすためには、相当に精巧な制御回路が必要なはずだ。
「お気に召しましたか」
視線に気づいたオルフェンが尋ねる。
「はい。あの魔導灯、複数の魔石を使っているんでしょうか。光にむらがありませんし、かなり精密な構造なのではと思って」
「さすがは修理師でいらっしゃいますね。多くのお客様は装飾を褒めてくださるのですが、内部の仕組みに興味を持たれた方は初めてです」
「あっ、すみません。つい……」
「いえ。旦那様も、きっとお喜びになるでしょう」
その言葉に、リゼットは少しだけ安心した。
案内されたのは、庭園に面した落ち着いた応接室だった。大きな窓から午後の日差しが差し込み、室内には上品な花の香りが漂っている。
オルフェンに勧められてソファに腰を下ろすと、ほどなくして侍女がお茶を運んできた。リゼットが礼を言うと、侍女は丁寧に一礼して退出する。
リゼットは改めて室内を見回した。
公爵家からの依頼。
昨日から何度も考えているが、やはり不思議だった。王宮には優秀な魔道具技師が何人もいるはずなのに、なぜ町の工房で働く自分が呼ばれたのだろう。
もしも王宮の技師たちにも直せないほど難しい故障なら、なおさら興味が湧く。
リゼットは鞄から小さな手帳を取り出し、確認したい項目を書き始めた。
故障の症状、発生時期、魔石の種類、これまでに行った修理。
考え始めると、気になることはいくらでも出てくる。
そのとき、扉の向こうから足音が近づいてきた。
「お待たせした」
落ち着いた男性の声とともに扉が開き、背の高い青年が姿を現した。
艶のある黒髪に、印象的な金色の瞳。端正な顔立ちはもちろん、無駄のない立ち居振る舞いからも、育ちの良さと自信が感じられる。仕立てのよい黒い上着には控えめな金の刺繍が施され、華美ではないのに不思議と目を引いた。
ヴィンセント・ヴァルクレイン公爵。
二十六歳という若さで公爵家を率い、王太子の親友としても知られる人物だ。
リゼットは慌てて立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。ベルニエ工房のリゼット・ベルニエと申します。このたびは修理のご依頼をいただき、ありがとうございます」
「ヴィンセント・ヴァルクレインだ。こちらこそ、急な依頼にもかかわらず足を運んでくれて感謝する」
穏やかに応じたヴィンセントは、彼女の顔を見て一瞬だけ動きを止めた。
「……失礼だが、君が?」
「はい?」
「いや、ベルニエ工房から腕の立つ修理師が来ると聞いていたのでね」
「はい。私がその修理師です」
ヴィンセントはわずかに眉を上げた。
「なるほど。ずいぶん若い」
リゼットは小さく首を傾げる。
「公爵様も、お若くして公爵家を継がれたと伺っておりますが」
その返答に、ヴィンセントは目を瞬かせた。
一拍の沈黙のあと、彼の口元に笑みが浮かぶ。
「……確かに、そのとおりだな」
「年齢についてご心配でしたら、これまでの修理実績をお見せできます」
「いや、疑っているわけではない。ただ、勝手に年配の職人を想像していた。グレゴールからは、相当な腕前だと聞かされていたからね」
「ありがとうございます。ですが、実物を拝見してからでないと、お引き受けできるかどうかは分かりません」
「慎重だな」
「修理できるか分からないものを、できますと申し上げるわけにはいきませんので」
ヴィンセントは楽しげに笑った。
「気に入った。どうやらグレゴールの推薦は正しかったようだ」
「まだ何も修理しておりませんけれど」
「それもそうだ」
再び笑ったヴィンセントに勧められ、リゼットはソファに座り直した。
公爵という立場から、もっと威圧的な人物を想像していたが、実際にはずいぶん話しやすい。もちろん、相手が王国有数の大貴族であることに変わりはないため、気を抜くつもりはなかった。
ヴィンセントは向かいのソファに腰を下ろすと、卓上に置かれた封筒を手に取った。
「さて、早速だが本題に入ろう。今回、君に見てもらいたい魔道具は、少々特殊なものなんだ」
「特殊、ですか」
「ああ。王宮の技師たちも長い時間をかけて調べてくれたが、原因を突き止められずにいる」
「どのような症状なのでしょう」
「魔力の流れが不安定になる。特に最近は、内部で滞ることが増えたらしい」
リゼットは手帳を開いた。
「魔石の劣化でしょうか。それとも制御回路の問題ですか?」
「その両方が疑われている。ただ、通常の方法で調べようとすると、かえって状態が悪くなることがある」
「……それは厄介ですね」
「そうだろう?」
ヴィンセントの口調は軽かったが、リゼットは真剣に考え込んだ。
魔力の流れが滞る魔道具は珍しくない。だが、検査そのものが不具合を悪化させるとなると話は別だ。外部から魔力を送り込む一般的な測定方法が使えない可能性がある。
「魔石を取り外して調べることはできないのですか?」
リゼットが尋ねると、ヴィンセントは少しだけ表情を改めた。
「それができれば、話は早いのだがね」
「取り外せない構造なのでしょうか」
「ああ。取り外せば、私は死ぬ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
ヴィンセントは驚いた彼女を見つめ、静かに言った。
「君に見てもらいたいのは、私の心臓だ」
リゼットは瞬きをした。
一度。
二度。
それから、ゆっくりと手元の手帳を見下ろした。
故障の症状。発生時期。魔石の種類。これまでの修理。
書き並べた項目のどこにも、心臓という文字はない。
「……申し訳ありません。もう一度、お願いできますか?」
「私の心臓だ」
聞き間違いではなかったらしい。
「心臓……というのは、あの、胸の中にある?」
「ほかに心臓があるなら、ぜひ教えてほしい」
「いえ、そういう意味ではなくて!」
ヴィンセントは笑いを堪えるように口元へ手を添えた。
リゼットは思わず眉を寄せる。
「公爵様。私は魔道具の修理師であって、医師ではありません」
「承知している」
「それでしたら、なぜ私を?」
「私の心臓が、魔道具だからだ」
その言葉に、リゼットは息を呑んだ。
ヴィンセントは上着の胸元へ軽く手を当てた。
「十年前、ある事件で心臓に致命的な傷を負った。普通なら助からない状態だったらしいが、王宮に保管されていた古代の魔石を使って、命をつないでもらったんだ」
「古代の……魔石?」
「ああ。私の胸の中には、魔石を中心とした人工の心臓がある。魔力を循環させるための回路と制御術式も組み込まれていてね。これまで十年間、問題なく動いていた」
リゼットは無意識に身を乗り出していた。
人工の心臓。
しかも、古代の魔石を使った魔道具。
そんなものが存在するとは、聞いたこともなかった。
「それが最近になって、うまく動かなくなったということですか?」
「そういうことだ。魔力の循環が滞るたびに、少々厄介な症状が出る」
「少々、ですか?」
「痛みがある。ひどいときは息苦しくなるし、意識が遠のくこともあるな」
「それは少々ではないと思います」
リゼットが即座に言い返すと、ヴィンセントは愉快そうに目を細めた。
「君はなかなかはっきり物を言うな」
「症状を正確に把握するのも、修理師の仕事ですので」
「なるほど。では訂正しよう。かなり厄介な症状だ」
「はい。その方が正確です」
真面目な顔で頷くリゼットを見て、ヴィンセントはとうとう声を立てて笑った。
その笑顔は、先ほどまでの余裕に満ちた公爵のものとは少し違って見えた。
けれどリゼットの関心は、すでに別のところへ向かっていた。
「公爵様。その心臓について、設計図や記録は残っていますか?」
「王宮に保管されている。必要なら閲覧できるよう手配しよう」
「それから、現在の魔力循環を測定した記録も拝見したいです。できれば、症状が出たときと落ち着いているときの両方を」
「用意させよう」
「使用されている魔石の種類は分かりますか?」
「古代のものだとしか聞いていないな」
「それでは、実物を調べないと何とも言えませんね……」
リゼットは手帳に次々と書き込みながら、頭の中で可能性を組み立てていく。
もしも魔石そのものではなく、制御回路に問題があるのなら。
あるいは、魔力を循環させるための術式が何らかの理由で正常に働かなくなっているのなら。
修理できる余地はあるかもしれない。
もちろん、相手は人間の心臓だ。通常の魔道具とは比較にならないほど慎重な作業が求められる。
それでも、調べもせずに諦める理由にはならなかった。
「……あの、公爵様」
「何だろう」
「私に、詳しく調べさせていただけませんか」
ヴィンセントは静かに彼女を見つめた。
「まだ修理できると決まったわけではありません。ですが、今のお話だけで不可能だと判断することもできません。まずは構造を確認して、どこに問題があるのかを調べたいんです」
「危険な仕事だぞ」
「承知しています」
「失敗すれば、私の命に関わる」
「ですから、無理なことはいたしません。安全に調べられる方法から、一つずつ試したいと思っています」
リゼットは手帳を閉じ、まっすぐにヴィンセントを見た。
「私は、壊れたものを直す仕事が好きなんです。直せる可能性があるのなら、できる限りのことをしたいと思っています」
しばらくの間、ヴィンセントは何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……いい返事だ」
その声には、先ほどまでの冗談めいた響きがなかった。
「君に頼もう、リゼット・ベルニエ嬢」
「はい。精いっぱい努めます」
「ただし、一つ条件がある」
「条件、ですか?」
「自分の身を危険にさらすような無茶はしないことだ。私の心臓を直すために、君まで倒れられては困る」
リゼットは少し驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、公爵様もご自身のお身体を大切になさってくださいね」
「私か?」
「はい。先ほどの症状を『少々』とおっしゃるくらいですから、少し心配です」
ヴィンセントは一瞬だけ言葉に詰まり、それから肩を揺らして笑った。
「まったく。初対面で私にそこまで言う人間は、そう多くない」
「……失礼でしたか?」
「いや。実に新鮮だ」
彼は立ち上がり、扉の方へ視線を向けた。
「では、早速グレゴールを呼ぼう。必要な資料も揃えさせる」
リゼットも立ち上がり、鞄を手に取った。
「よろしくお願いいたします」
その顔には、初めて公爵邸へ足を踏み入れたときの緊張よりも、未知の魔道具に向き合う職人としての期待が色濃く浮かんでいた。
ヴィンセントはそんな彼女を横目で見て、わずかに口元を緩める。
王宮の技師たちが頭を抱えた難題を前に、この若い修理師は怯えるどころか、目を輝かせている。
どうやら、思っていた以上に面白い人物を招いたらしい。
もっとも、リゼットの方はそんなことに気づいていなかった。
彼女の頭の中は、すでに古代の魔石と人工心臓のことでいっぱいだったのだから。




