第1話 ベルニエ工房の修理師
「……おかしいわね」
小さな金属音が響く工房で、リゼット・ベルニエは作業台に向かって首を傾げていた。
目の前にあるのは、手のひらほどの大きさの魔導灯だ。夜間の読書や細かな手仕事に使われるもので、内部に組み込まれた魔石の力によって明かりを灯す仕組みになっている。
依頼主によれば、数日前から突然明かりが消えるようになったという。
魔石の残量は十分。外側の制御術式にも目立った損傷はない。それなのに、一定の時間が経つと魔力の供給が途切れてしまう。
「魔石じゃない。こっちの回路……ううん、違うなぁ」
リゼットは細い工具を持ち替え、内部に刻まれた複雑な線を慎重になぞった。
淡いローズ色の髪は後ろでまとめ、袖口は邪魔にならないよう留めてある。手には、魔力を通さない特殊な素材で作られた薄手の手袋。
彼女にとって、手袋は仕事道具であると同時に、日常生活に欠かせないものだった。
「リゼット。まだそれを見ているのか?」
背後から声をかけられ、リゼットは顔を上げた。
工房の奥から姿を現したのは、父のロランだ。年季の入った革の前掛けを身につけ、片手には修理を終えたばかりの魔道具を持っている。
「あと少しで分かりそうなの」
「それは一時間前にも聞いたぞ」
「一時間も経ってないでしょう?」
「二時間だ」
「……そんなに?」
ロランが呆れたように笑う。
「お前は昔から、魔道具を前にすると時間の感覚がなくなるな」
「お父さんだって人のこと言えないでしょう。昨日、夕食に呼ばれても出てこなかったじゃない」
「昨日のあれは、あと一工程で終わるところだったんだ」
「私も今、あと一工程なの」
父娘は顔を見合わせた。
互いに言い返す言葉が見つからず、結局どちらからともなく笑い出す。
ベルニエ工房は、王都の城下町にある小さな魔道具修理店だ。
店主であるロランは、この道三十年近い熟練の職人で、複雑な魔道具の修理を得意としている。工房には古い工具や図面が所狭しと並び、壁一面の棚には大小さまざまな魔石が収められていた。
リゼットは幼い頃から、この場所で育った。
父の仕事を眺め、使わなくなった部品を分けてもらい、時には失敗して叱られながら、少しずつ魔道具の仕組みを覚えていった。
今では父と並んで修理を引き受けるようになり、難しい故障を抱えた客が彼女を指名して訪れることも珍しくない。
もっとも、最初から誰もがその腕を信じてくれたわけではなかった。
二十歳の若い娘。それも、魔力を一切持たない人間が魔道具を修理するというのだから、疑われるのも無理はない。
この世界では、誰もが生まれながらに魔力を持っている。
強さには個人差があるものの、魔力は身体の内側を巡り、生命活動を支える役割も果たしていた。魔法を得意としない者でさえ、日常生活の中でごく自然に魔力を使っている。
けれど、リゼットにはそれがなかった。
生まれつき、魔力がまったく存在しないのだ。
魔力を必要とする魔道具を自分の力で動かすこともできなければ、簡単な生活魔法さえ使えない。
そのうえ、彼女にはもう一つ、厄介な体質があった。
素肌で他人に触れると、相手の魔力の流れを乱してしまう。
ほんのわずかな接触なら軽いめまいで済むこともあるが、長く触れ続ければ命に関わる危険すらある。
幼い頃に起きた事故をきっかけに、リゼットは人との接触を何よりも慎重に避けるようになった。
手袋はもちろん、外出時には肌の露出を抑えた服を選び、人混みにもなるべく近づかない。
それでも、彼女は自分の生活を不幸だと思っているわけではなかった。
家には優しい両親がいて、大好きな仕事がある。
それに、いつかは手袋を外して暮らせるようになるかもしれない。
そのための研究も、ずっと続けているのだから。
「……あ」
ふいに、リゼットの手が止まった。
魔導灯の内部をもう一度確かめ、細い工具の先で小さな接続部分を指す。
「見つけた」
「どうした?」
「ここ。回路が切れているんじゃなくて、熱が加わると接続が緩むようになってるの。だから使い始めは問題ないのに、しばらくすると明かりが消えるんだわ」
ロランが隣から覗き込む。
「なるほど。外側からじゃ分からんな」
「でしょう? 魔石を交換しても直らないはずよ」
リゼットは嬉しそうに笑い、修理に取りかかった。
小さな接続部品を取り外し、形を整えてから元の位置に戻す。細かな作業だったが、手つきに迷いはない。
やがて魔導灯に明かりが灯った。
しばらく待っても、光が途切れる気配はない。
「よし。これで大丈夫」
「見事なもんだ」
父親の言葉に、リゼットは得意げに胸を張った。
「もっと褒めてもいいのよ?」
「調子に乗るからやめておこう」
「もう」
そう言いながらも、頬が緩むのを抑えられなかった。
父から認められることは、何度経験しても嬉しい。
そのとき、工房の扉が開いた。
「二人とも、そろそろお昼にしましょう」
顔を覗かせたのは、母のエマだった。
柔らかな笑みを浮かべていた彼女は、作業台に並んだ工具と、すっかり冷めたままの茶器を見て、小さくため息をつく。
「……また夢中になっていたのね」
「ちょうど終わったところよ、お母さん」
「本当かしら。さっきもそう言っていたでしょう?」
「今日は本当!」
「あなたたちの『あと少し』は、あまり信用できないのよね」
エマは笑いながら、ロランにも視線を向けた。
「あなたもよ。朝からほとんど休んでいないでしょう」
「いや、私はちゃんと休憩を……」
「お茶、ひと口も減っていないわ」
「……そうだったか?」
父娘がそろって目を逸らすと、エマはとうとう声を立てて笑った。
「さあ、片づけていらっしゃい。今日は焼きたてのパンもあるのよ」
「パン!」
リゼットはすぐさま工具を置いた。
「今度はずいぶん決断が早いな」
「だって、お母さんの焼くパンは冷める前が一番おいしいもの」
「魔道具よりパンか」
「お父さんだって食べるでしょう?」
「もちろんだ」
二人の返事を聞いて、エマは満足そうに頷いた。
工房と住居は隣接しており、家族三人は毎日のように食卓を囲む。
ロランとエマは、娘の特殊な体質をよく理解していた。
リゼットが幼い頃から、直接肌が触れないよう生活のあちこちに工夫を重ねてきた。手袋の素材を選んだのも、作業中の安全を考えて工具を改良したのも、最初は父親だった。
母親もまた、娘が必要以上に自分を制限しなくて済むよう、いつもさりげなく気を配ってくれている。
だからこそ、リゼットはこの家にいるときだけは、何も気にせず笑っていられた。
食事を終えたあと、リゼットは自室へ戻り、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
表紙は何度も開いたせいで擦り切れ、ところどころに新しい紙が継ぎ足されている。
そこには、長年続けてきた研究の記録が詰まっていた。
魔力干渉遮断装置。
手袋や衣服に頼らず、自分の身体から周囲へ及ぼす影響を防ぐための魔道具だ。
理論は少しずつ形になっている。試作品もいくつか作った。
けれど、完成にはまだ遠い。
必要な魔石は高価で、特殊な素材も簡単には手に入らない。何度も実験を繰り返せるほどの余裕は、工房にはなかった。
「……次は、ここの構造を変えてみようかな」
ノートに新しい図を書き込みながら、リゼットは小さく呟いた。
もし、これが完成したら。
母と手袋なしで手をつなげるだろうか。
父に、何も気にせず抱きつくことができるだろうか。
友達と街を歩いたり、誰かと恋をしたり。
そんな、ごく普通のことができるようになるのだろうか。
リゼットはしばらく図面を見つめ、それから小さく笑った。
「……まずは、お金を貯めなくちゃね」
夢を見るだけでは、魔道具は完成しない。
そのことを、彼女は誰よりもよく知っていた。
午後になり、リゼットが再び工房で仕事を始めた頃だった。
表の扉を叩く音がした。
「はい、ただいま!」
リゼットが返事をするより先に、ロランが店先へ向かう。
ほどなくして、聞き慣れない男性の声が響いた。
「こちらがベルニエ工房で間違いありませんか」
「ええ、そうですが」
「王宮より参りました。修理の依頼について、お話を伺いたく」
王宮。
その言葉に、リゼットは思わず顔を上げた。
これまで貴族から依頼を受けたことはあったが、王宮から直接使者が訪れるなど初めてのことだ。
何か特別な魔道具の修理だろうか。
興味を抑えられず、リゼットは作業台から立ち上がった。
店先には、整った制服を身につけた男性が立っていた。
男性はロランに向かって丁寧に一礼すると、懐から封書を取り出した。
「王宮魔道具技師長グレゴール様より、正式なご依頼です」
「技師長殿から?」
ロランが驚いたように眉を上げる。
「それはまた、ずいぶん大層な話ですな」
「はい。極めて重要な案件と伺っております」
男性はそこで一度言葉を切り、工房の奥へ視線を向けた。
「リゼット・ベルニエ殿はいらっしゃいますか」
「……私ですか?」
思わず声を上げると、男性はリゼットに向き直った。
「あなたがリゼット殿ですか」
「はい。そうですが……」
男性は封書を差し出した。
厚手の上質な紙には、見慣れない紋章が押されている。
「ヴァルクレイン公爵家より、あなたをご指名で修理の依頼がございます」
リゼットは封書を受け取り、目を瞬かせた。
ヴァルクレイン公爵家。
その名を知らない者は、王国にはほとんどいない。
若くして公爵位を継ぎ、王太子の親友としても知られる、あのヴィンセント・ヴァルクレインの家だ。
「……公爵家から、私に?」
「はい。ぜひ一度、お話をお聞きいただきたいとのことです」
隣ではロランも驚いた顔をしている。
リゼットは手元の封書を見下ろした。
一体、どんな魔道具が壊れたというのだろう。
王宮の技師長がわざわざ使者を寄越し、公爵家が自分を指名するほどの故障。
少なくとも、普通の魔導灯ではなさそうだ。
不安がないわけではなかった。
けれど、それ以上に、職人としての好奇心が胸の内で膨らんでいく。
リゼットはそっと封を切った。
この依頼が、自分の人生を大きく変えることになるとは、まだ少しも知らずに。




