デッドリー・ランチ
「あのお節介なメモの送り主は、君だったのか?」
木島は静かに近づいてくる。ゴム底の実験靴が、床を鳴らすことなく距離を詰める。
その手には、鈍く光るモンキーレンチが握られている。実験器具の調整に使うためのものだが、人の頭を叩き割るには十分すぎる重量と硬度を持っている。
逆光の中で、彼の眼鏡が不気味に光った。
「いいや、違う。僕はただの受け取り手さ」
僕は薬品棚を背にして、じりじりと後退した。心臓が早鐘を打つ。
逃げ場を探すが、出口は木島に塞がれている。窓は3階で、飛び降りるわけにはいかない。
武器になりそうなものは……硝子製のビーカーやフラスコくらいしかない。
「教授は僕の人生を奪った」
木島が淡々と語り始めた。感情が欠落したような語り口が、逆に底知れぬ狂気を感じさせる。
「僕が5年かけて積み上げたデータを、奴は自分の著書として出版した。抗議したら、『お前のような無名の学生に誰も注目しない。私の名前で出せば箔がつく、感謝しろ』だとさ。あの男は、研究者としても教育者としても腐っている」
「だから殺すのか?」
「正当な報復だ。社会的な抹殺だけじゃ生温い。奴には物理的に消えてもらう。それが因果応報というものだ」
彼の目には、確固たる信念があった。歪んでいるが、彼の中では正義なのだ。
木島がレンチを振り上げた。
「君も運が悪かったな。ここで大人しくしていれば、巻き込まれずに済んだのに」
ブンッ!
重い風切り音と共に、銀色の凶器が振り下ろされる。
僕は横に飛び退いて避けた。ガシャーン! 背後の棚のガラス戸が粉砕され、破片が飛び散る。
飛び散った破片が頬を掠め、血が滲む。
「待てよ! 僕を殺せば、お前は確実に捕まるぞ!」
「薬品庫への不法侵入者が、薬品の調合ミスで爆発事故を起こした……そんなシナリオはどうかな? ここのセキュリティはザルだし、薬品の配置を知っている僕なら、痕跡を消すくらい造作もない。君は哀れな事故死者として処理される」
彼は本気だ。
僕を始末して、事故に見せかけるつもりだ。
こいつは、実験動物を処分するのと同じ感覚で、僕を殺そうとしている。
僕はポケットのメモを握りしめた。
冷たい汗が背中を流れる。
未来の僕。教えてくれ。どうすれば助かる?
だが、メモは沈黙したままだ。
いや……違う。
薄暗がりの中で、メモの端に、新しい文字が青白く浮かんでいる。
まるで蛍の光のような、淡い輝き。
『右の棚。三段目。赤い瓶を投げろ』
未来からの戦術指示。
僕は迷わず、指示された棚へと手を伸ばした。そこには赤い液体が入った試薬瓶が並んでいる。中身が何なのか考える暇はない。
一本を掴み取り、木島の足元めがけて思い切り叩きつけた。
パリン!
液体が飛散し、白い煙が爆発的に広がる。
シューッという音と共に、鼻を突く強烈な刺激臭が充満する。
アンモニアか、あるいはもっと揮発性の高い何かか。
「ぐあっ……!? なんだこれ! 目が……!」
木島がむせ返り、涙目で視界を奪われてよろめく。
チャンスだ!
僕は煙の中を突っ切り、ドアの方へと走った。
肺が焼けるように痛いが、構ってはいられない。
ドアノブに手をかける。
その瞬間。
煙の中から伸びてきた見えない手が、僕の足首を掴んだ。
万力のような力。
「逃がす、か……!」
執念。殺意の塊のような力が、僕を引きずり倒す。
転倒する僕。床に強打した膝に激痛が走る。
馬乗りになる木島。充血した目で僕を睨みつけ、レンチを振り上げる。
その顔は、もはや人間ではなかった。復讐の鬼だ。
「死ねぇッ!」
終わった。
銀色の死が振り下ろされる。
そう思った。
バン!
ドアが乱暴に蹴破られた。
「そこまでよ!」
凛とした声と共に、一人の女性が飛び込んできた。
絵里依だ!
彼女は廊下に備え付けられていた赤い消火器を抱え、躊躇なくピンを抜いた。
その構えは、まるで映画のヒロインのように様になっていた。
プシューーーッ!
ピンク色の消火粉末が、猛烈な勢いで木島に噴射される。
視界が真っ白に染まる。
「うわあああっ!?」
視界と呼吸を完全に奪われ、木島がたまらず僕から離れる。粉末を吸い込み、激しく咳き込んでいる。
「湊! 今のうちに!」
真っ白な粉まみれになった絵里依が叫ぶ。
「て、手荒だな……!」
僕はその隙に這い出し、絵里依の手を取って走り出した。
廊下には、騒ぎを聞きつけた警備員と、会議から戻ってきた教授の姿もあった。
「な、なんだこの騒ぎは!」
教授が目を白黒させている。
「先生! 木島さんが先生を殺そうとしていたんです! 証拠は薬品庫の中にあります! 僕を襲った凶器も!」
僕は叫んだ。喉が焼けるように痛いが、それでも声を張り上げた。
粉まみれで部屋から出てきた木島は、駆けつけた警備員たちに取り押さえられた。
彼は抵抗することなく、ただ呆然と立ち尽くす教授を睨みつけていた。
かつての恩師へ向ける、最後の眼差し。
「……僕の研究を返せ」
その掠れた声は、憎しみよりも深い悲しみを帯びていて、誰の心にも重く響いた。
教授は何も言わず、ただ青ざめた顔で視線を逸らした。その反応こそが、木島の告発が真実であることを物語っていた。
事件は終わったが、後味の悪さだけが残った。




