変容するメッセージ
院生の名前は木島。
薬品管理の責任者であり、教授の研究データを最も深く知る人物だ。
僕は彼をマークすることにした。
教授が薬を飲んでから数時間。今のところ教授の体調に異変はないらしい。講義も通常通り行われている。
だが、メモの内容が変わった以上、死の危険は去っていない。
『死因は心不全。薬の飲み合わせによるショック死だ』
つまり、教授が「次に何かを口にした時」が危ないのかもしれない。あるいは、時間が経ってから効果が出るタイプの遅効性の相互作用か。
どちらにせよ、猶予はない。
僕はその足で大学の図書館に駆け込み、医学部コーナーで薬剤の専門書を読み漁った。
静まり返った館内で、ページをめくる音だけが響く。焦燥感で文字が滑る。
教授が常用しているのは、不整脈を抑えるためのβ遮断薬だ。これと劇的な副作用を起こす組み合わせは……。
専門用語の羅列に目が回りそうになりながらも、僕は一つの可能性にたどり着いた。
特定の降圧剤や、あるいは研究室にあるような化学試薬との反応。
そして、研究室で入手可能な薬品リストと照らし合わせる。
木島なら、薬品庫の鍵を持っている。どんな劇薬でも持ち出せる立場だ。
管理の甘い大学の研究室。そこは、殺人者にとって最高の調理場だ。
夕方。研究室に忍び込むチャンスが訪れた。
教授は定例の学部会議で席を外し、学生たちも三々五々帰宅し始めている。
木島も、実験器具を片付けて出て行ったのを確認した。
僕は周囲を警戒しながら廊下を歩く。誰もいない。
静かに研究室のドアを開けた。
夕日が差し込む室内は、昼間とは違う静寂に包まれている。
埃が光の中で踊っている。薬品のツンとした刺激臭が鼻をつく。
僕は息を潜めて侵入した。
薬品庫の鍵は閉まっているが、そこは事前の調査済みだ。お昼の騒ぎの最中、木島が鍵を鉢植えの下に隠すのを目撃していた。杜撰な管理だが、誰も疑っていない証拠だ。
鍵を開け、独特の薬品臭が漂う中に入る。
冷房が効いた庫内は、ひんやりとしていて不気味だ。
棚には無数の試薬瓶が並んでいる。劇薬、毒物、可燃性物質。
在庫リストを確認する。
やはり、ある特定の薬品――カリウム製剤――だけ、記録よりも減りが早い。
これを摂取すれば、心停止を引き起こすことができる。病死に見せかけるための常套手段だ。
そして、教授のデスクを調べる。
引き出しの中に、予備の薬瓶が入っていた。
教授が昼間飲んでいたのと同じラベル。
僕は震える手で蓋を開け、カプセルを取り出した。
その中に混ざっているカプセルの一つだけ、微妙に色がくすんでいるものが見つかった。
肉眼ではほとんど分からないレベルだが、スマホのカメラで拡大してライトを当てると、カプセルの継ぎ目に違和感がある。一度開けて、詰め直した痕跡だ。
刻印の製造番号も、よく見ると削り取られて書き直されている。
「これだ……」
証拠を見つけた。
このカプセルを飲めば、心臓が停止する。病死として処理される完璧な計画だ。
教授が次に薬を飲むタイミングで、すべてが終わる。
だが、なぜ木島はこんなことを?
優秀な院生が、恩師を殺す理由は何だ?
デスクの引き出しの奥から、一枚の写真が出てきた。
それは、数年前のものだろうか。若い頃の木島と、教授が笑顔で肩を組んで写っている写真だった。
二人とも、研究の達成感に満ちた良い表情をしている。
裏には『共同研究の成功を祝って』と書かれている。
だが、その写真はクシャクシャに丸められ、さらに赤いマジックで『泥棒』と殴り書きされていた。
紙が破れるほどの筆圧で。
研究の盗用。
それが、動機か。
アカデミックな世界では決して珍しくない闇。
教授は木島の研究成果を自分のものとして発表しようとしていた。あるいは、既にしてしまったのかもしれない。
「君の研究は私の指導があったからこそだ」
「学生の名など出しても誰も見ない」
「私の名前で出せば、君にとっても箔がつくだろう」
そんな言葉に、木島は絶望し、憎悪を募らせていったのだろうか。
尊敬していた恩師に裏切られ、研究者としてのプライドを踏みにじられた恨み。
だとしても、殺人が許されるわけじゃない。
その時。
背後でカチャリとドアの鍵が閉まる音がした。
心臓が凍りつく。
思考が停止する。誰もいないはずだった。
逃げ道は塞がれた。
「……やっぱり、君か」
ゆっくりと振り返ると、そこには木島が立っていた。
逆光で表情は見えない。だが、その手には、重そうな実験用のモンキーレンチが握られている。
鈍く光る金属の塊。
表情はない。能面のような顔で、ただ静かに僕を見下ろしていた。
「勘のいいガキは嫌いだよ。なんで部外者の君が、そこまで嗅ぎ回るんだ?」
彼の無機質な瞳には、僕という人間を「排除すべき障害物」としか見ていない冷たさがあった。
そこには、理性の光など微塵も残っていない。ただ、深い闇だけがあった。




