二人目の生存者
木島の逮捕により、理学部を揺るがした殺人未遂事件は幕を閉じた。
教授は自分の行いを公には認めなかったが、大学側が事態を重く見て調査委員会を立ち上げた結果、過去の複数の論文における不正疑惑が浮上。結局、彼は自主的に大学を辞職し、田舎へ隠居することになったという。
彼なりの、あるいは大学なりの、消極的な幕引きだった。
被害者である僕たちにとっては、何とも煮え切らない結末だ。だが、少なくとも誰も死なずに済んだ。
木島の憎悪も、教授の野心も、すべては夏の風の中に消えていった。
夏休みも終わりに近づいたある日。
僕と絵里依は、大学の並木道を歩いていた。
蝉の声が少し静かになり、風に秋の気配が混じり始めている。
アスファルトに落ちる木漏れ日を踏みしめながら、僕たちは事件を振り返っていた。
「まさか絵里依が助けに来てくれるなんてな。あの消火器攻撃、見事だったよ」
「ふふん、伊達にアクション映画好きじゃないわよ。でも、本当に怖かったんだから。湊の様子がおかしかったから、ずっと心配してたんだよ? 鏡くんのことがあってから、貴方ずっと張り詰めた顔してたし」
絵里依は少し拗ねたように言った。
彼女を巻き込んでしまったことは反省しなければならない。けれど、彼女の勇気のおかげで、僕は命拾いした。
彼女こそが、僕にとって最強のパートナーなのかもしれない。……いや、そういう感情的な話は抜きにして。
戦友としての絆は、確実に深まっている。
「それにしても、あのメモ……本当に便利なのか不便なのか分からないな」
「ああ。命を救えるのはいいけど、毎回命がけだ。心臓がいくつあっても足りない」
僕はポケットからメモを取り出した。
何度も折りたたまれ、くしゃくしゃになった紙切れ。
教授の死を予言していた文字は、綺麗に消えている。
これで二人目。
鏡が狙った絵里依。木島が狙った教授。
僕たちは少しずつ、未来を変えることに慣れ始めていた。「運命は変えられる」という事実は、僕たちに自信を与えていた。
だが、それは慢心だったのかもしれない。運命という巨大な激流に、小石を投げ込んでいるだけに過ぎないことを、僕はまだ理解していなかった。
激流は、せき止められればせき止められるほど、勢いを増して次の場所へ向かうのだから。
その夜。
自室に戻った僕は、机の上に新しいメモが置かれているのを見つけた。
いつものように、歪んだ筆跡。だが、その文字は今まで以上に乱れ、紙に穴が空くほど深く刻まれていた。
蛍光灯の下で、それは不吉なオーラを放っていた。
『お疲れ様。二人目もクリアだね』
まるでゲームの進行役のような口調。
ゾクリとした。
やはり、これは単なる未来からの警告じゃない。何らかの意思が働いている。
僕を試し、弄び、観察している何者かの視線を感じる。
読み進めると、背筋が凍りついた。
『でも、気づいているかな?』
『君が未来を変えるたびに、世界の歪みは大きくなっている』
『次の標的は、君自身だ』
『死因は不明。回避不能』
「……は?」
死因不明? 回避不能?
どういうことだ。殺されるんじゃなくて、死ぬ?
冗談じゃない。今まで少なくとも「方法」は示されていた。だからこそ対策が打てた。
だが、今回はノーヒントだ。
さらに、最後に奇妙な一文が添えられていた。
『追伸。私を探して。君の記憶の中に、私はいる』
私。
今まで「僕」や「俺」といった一人称を使わず、客観的な事実だけを伝えてきたメッセージ。
それが初めて、「私」という言葉を使った。
これは、未来の僕じゃない?
だとしたら、誰だ?
僕の記憶の中にいる、「私」とは?
戦いは、まだ終わっていなかったのだ。
僕は窓の外を見上げた。
月が、不気味なほど青白く輝いている。
記憶の中。
僕は必死に過去を辿る。
歪んだ筆跡。どこか懐かしさを感じる筆跡。
未来を知る存在。
そして、僕と絵里依を救おうとしつつ、残酷な試練を与える存在。
「……まさか」
一つの仮説が脳裏をよぎる。
それは、あり得ないはずの、けれど最も納得のいく答え。
僕は押入れの奥から、埃を被った古いアルバムを引っ張り出した。
ページをめくる手が震える。
小学校時代の写真。
運動会、遠足、林間学校。無邪気な笑顔の僕と絵里依。
そして、そこに写っている、もう一人の少女。
絵里依の隣で、いつも僕たちの後ろを楽しそうについてくる、儚げな笑顔の少女。
10年前に死んだはずの、彼女。
物語は、最終章へと加速する。
すべての謎が解ける時、僕たちは本当の「明日」を知ることになる。
そこにあるのは希望か、それとも絶望か。




