声の主
10年前。
小学校の卒業式の前日、交通事故で亡くなった少女がいた。
名前は、天野栞。
僕と絵里依にとって、3人目の幼馴染であり、掛け替えのない友だった。
彼女はいつも一歩引いて、僕と絵里依の喧嘩をニコニコと眺めているような、控えめで優しい子だった。
髪を二つに結び、少し大きめの眼鏡をかけていた彼女の姿が、今でも鮮明に思い出せる。
あの雨の日。交差点で信号無視のトラックが突っ込んできた時、彼女は僕を突き飛ばして助け、自分だけが犠牲になった。
小さな体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた光景。
その事実は、この10年間、僕の心に深い棘として刺さっていたはずだった。そう、「はず」だったのだ。
なぜなら、僕はそのことをあまり思い出さないようにして生きてきたからだ。無意識に封印していた罪悪感。それが今、扉をこじ開けて溢れ出そうとしている。
僕は古いアルバムを片手に、栞の実家を訪ねることにした。
彼女の家は、僕のアパートから電車で数駅の距離にある、静かな住宅街に残っていた。
築年数の経った木造の一軒家。庭の木々は少し伸び放題になっていて、時の流れを感じさせる。
表札にはまだ『天野』の文字がある。雨風に晒されて少し薄くなっているが、確かにそこにある。
インターホンを押すと、ピンポーンと少し嗄れた音が響いた。
しばらくして、少し年老いた栞の母親が出てきた。
「あら……湊くん? まあ、久しぶりねぇ」
10年ぶりの訪問にもかかわらず、彼女は僕を快く招き入れてくれた。
通された廊下は、昔と同じ匂いがした。古い木と、畳と、どこか懐かしい線香の香り。
仏間には、幼い頃のままの栞の写真が飾られていた。卒業式の写真だ。笑顔のピースサイン。
線香の白い煙が、まっすぐに立ち上っている。静寂の中に、チーンという涼やかな音が溶けていく。
「湊くん、随分と大きくなったわねぇ。栞が生きていたら、こんな風になっていたのかしら」
お茶を淹れてくれながら、彼女は懐かしそうに目を細めた。その目元には、栞と同じ泣き黒子があった。
湯呑みから立ち上る湯気が、僕と彼女の間を揺らめいている。
「あの……おばさん。変なことを聞くようですけど、栞が生前、何か『未来』について話したり、変わった日記を残していたりしませんでしたか?」
僕の唐突な質問に、彼女はきょとんとして、少し考え込んだ。
「未来……? そういえば、亡くなる少し前に、不思議なことを言っていたわ」
「どんなことですか?」
「『私ね、ずーっと湊くんと絵里依ちゃんを見ていられる魔法を見つけたの』って。子供の空想だと思って聞き流していたけれど、あの子、本気みたいな顔をしていて」
魔法。
その言葉が、僕の胸を突いた。
心臓が高鳴る。
それが、この不可解な現象の正体なのか?
「あと、部屋の片付けをしていた時に、こんなものが出てきたのよ」
母親が押し入れの奥から出してきてくれたのは、一冊のスケッチブックだった。
表紙には『未来の計画』と、色とりどりのクレヨンで書かれている。
ページをめくると、そこには拙い絵と文字で、僕たちの未来予想図が描かれていた。
『湊くんは大学生になる』
『絵里依ちゃんと同じ大学に行く』
『二人は仲良く喧嘩する』
そして、僕たちが大人になって結婚したり(相手は描かれていないが)、仕事をしている様子が無邪気に描かれている。
幸せな未来。彼女が夢見た、僕たちの明日。
胸が締め付けられるようだ。彼女は、自分の未来ではなく、僕たちの未来を描いていたのだ。
だが、最後のページだけ、筆致が違っていた。
強い筆圧で、黒いクレヨンで塗りつぶすように書かれた文字。
まるで何かに憑かれたように、何度も何度も重ね書きされた形跡がある。
『でも、私がいないと、湊くんも死んじゃう』
『だから、私が助けるの』
背中を冷たいものが這い上がった。
この歪んだ文字。
メモの筆跡と同じだ。
僕の文字に似ているが、微妙に違う。これは、小学生の栞が、僕の字を真似て書いたものだ。
思えば、彼女は僕の字を真似るのが得意だった。授業中の手紙交換で、先生に見つかっても「これは湊くんの字です」と言い逃れできるように練習していた、あの時の文字。
無邪気な悪戯心で練習していたそれが、まさかこんな形で使われるなんて。
「……栞」
メッセージの送り主は、やはり彼女だった。
「記憶の中の彼女」という比喩ではない。何らかの形で、彼女の意志が10年の時を超えて干渉している。
僕を助けるために。
未来を変えるために。
だとしたら、なぜ彼女は「次の標的は僕」だと言ったんだ?
『死因は不明。回避不能』とはどういう意味だ?
守ろうとしているんじゃないのか?
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
ブブブッ、ブブブッ。
静かな仏間に、バイブレーションの音が不気味に響く。
画面を見ると、『非通知設定』の文字。
嫌な予感を覚えながら、通話ボタンを押した。
耳に当てると、ザザッという砂嵐のようなノイズが聞こえた。
「……もしもし」
『……久しぶりだね、湊』
心臓が止まるかと思った。
ノイズ混じりのその声は、10年前の彼女の声そのものだった。
幼く、少し舌足らずで、けれど透き通るような響き。
忘れるはずがない。あの日、最後に「ありがとう」と言って息絶えた、あの声。
受話器の向こうから、時空を超えた声が問いかけてくる。
まるで、冥界からの電話のように冷たく、そして懐かしい。
『私のメッセージ、ちゃんと届いていたかな?』
『驚かせてごめんね。でも、こうするしかなかったの』




