ループ理論
「栞……なのか? 本当に、お前なのか?」
僕は震える声で問いかけた。仏壇の遺影と、スマホの向こうの声。生と死が曖昧になる感覚。
線香の煙が揺らめき、まるで霊的な媒介のように見えた。
『うん。でも、正確には違うかな。私は栞の記憶と、未来の可能性の残滓が混ざり合ってできた存在。えっと、難しく言うと……貴方の記憶の中にある天野栞を元にした、一種のシミュレーションみたいなもの、かな』
電話の向こうの声は、子供の声なのに、妙に大人びていて、淡々としていた。
無機質で、どこか寂しげな響き。まるで人工知能と話しているようだ。
『今の私は、貴方の脳の中にある記憶をもとにして、時間のズレを使って再現された……うーん、現象って言えばいいのかな。ごめんね、うまく説明できなくて』
小学生の彼女が使うはずのない言葉。
だが、その声色は紛れもなく彼女のものだ。
『湊。貴方は今、大きな分岐点に立っているの』
「分岐点?」
『そう。貴方が死ぬ未来と、生き残る未来。その確率が今、半々で揺れている状態。箱の中の猫みたいに、開けてみるまで分からないの』
彼女の説明は、あまりにも常軌を逸していたが、不思議と納得できるものだった。鏡がいたら目を輝かせていただろう。
『本来、貴方は10年前のあの事故で、私と一緒に死ぬはずだったの。トラックは二人とも轢いちゃう軌道だった。助かる見込みは、ほとんどゼロだったんだよ』
淡々と告げられる死の宣告。
『だが、栞が最期の瞬間に強く願った「魔法」――あるいは特異点としての因果干渉――によって、世界線がねじ曲がり、僕だけが奇跡的に助かった』
その歪みが、10年後の今、限界を迎えているのだという。
世界というシステムが、エラーを起こしたデータを削除しようとしているかのように。
『絵里依ちゃんが襲われたのも、田中教授が狙われたのも、実は貴方の死の運命が波及したものなの』
「波及?」
『貴方という「死ぬはずだった存在」が世界に居座ることで、周囲の因果律が狂い始めている。バタフライ・エフェクトのように、小さな歪みが周囲に不幸を撒き散らしているの。だから、私がメッセージを送って、その歪みを一つ一つ修正してきた』
「なんだよそれ……じゃあ、僕が疫病神だって言うのか? 僕が死ねばみんな助かるって言うのか?」
僕は叫んだ。理不尽すぎる。
生きているだけで罪だと言うのか。
『理論上はね。貴方が消滅すれば、世界は正常に戻るわ』
突き放すような言葉。冷徹な事実。
だが、彼女は続けた。声のトーンが、ふっと柔らかくなる。
『でも、私はそれを望まない。私は貴方に生きていてほしい。だから貴方にメッセージを送り、運命を変えさせてきた。必死に計算して、最適なルートを模索してきたの』
そうか。
あのメモは、彼女からのナビゲーションだったんだ。
死の淵からの、必死の誘導。膨大な計算とシミュレーションの果てに導き出された、唯一の生存ルート。
僕を生かすために。周囲の不幸を回避させるために。
彼女はずっと、孤独に戦っていたのだ。
『でもね、湊。運命を変えるたびに、その反動は貴方自身に蓄積されている。次に訪れる死は、誰かの悪意によるものじゃない。世界そのものが、貴方を消そうとする修正力よ』
「修正力……」
『明日、正午。貴方は心臓発作で死ぬ。医学的な原因はない。ただ、生命活動のスイッチが切れるように、唐突に命が終わる。世界のバグ修正プログラムが強制終了を実行するようにね』
「……回避不能、か」
『ええ。物理的な干渉じゃないから、防ぎようがない。逃げる場所もない。どんな名医でも、運命の停止ボタンは止められない』
絶望的な宣告だった。
犯人がいるなら戦える。毒なら防げる。
だが、見えない力に心臓を止められるなんて、どうすればいいんだ。
僕は膝から崩れ落ちそうになった。畳の感触が、冷たく感じる。
終わったのか。ここまであがいてきて、結局は。
『でも、たった一つだけ。回避する方法があるわ』
栞の声が、少しだけ優しさを帯びた。希望の光が差し込む。
『過去に戻って、原因を断つこと』
「過去に戻る? タイムトラベルなんて出来るわけが……」
『貴方の持っているそのメモ。それは未来からの受信機であると同時に、過去への送信機にもなる。私がそのパスを開いたわ。私の存在エネルギーをすべて使って、一度きりの回線を繋ぐ』
僕の手元にあるメモが、ぼんやりと青白い光を放ち始めた。
文字がめまぐるしく変化している。まるでデジタル信号のように。
『10年前のあの日。貴方が私と一緒に死ぬはずだったあの瞬間に、メッセージを送るの』
『自分を助けるために、何か別の行動を取らせる? トラックを避けるように指示するとか?』
『いいえ。違うわ。物理的な回避行動じゃ、運命の収束からは逃れられない』
彼女は残酷な真実を告げた。最も確実で、最も悲しい方法を。
『貴方が生き残る原因となった、「私の願い」を消すの』
『つまり、貴方は10年前の私に、「ボクを助けないで」と伝えるのよ』
それはつまり。
僕が助かるという現在(この世界線)を捨てて、本来の「二人とも死ぬ」過去を受け入れるということじゃないか?
いや、彼女の言い方は逆だ。
僕が助かったから(・・・・・・・・)、歪みが生まれた。
もし、彼女が僕を助けようとしなければ……?
彼女が僕を突き飛ばさなければ、二人とも助かる未来が生まれる可能性がある?
『貴方は重傷を負うかもしれないけれど、死なないかもしれない。運命は再計算される。「私が貴方を庇って死ぬ」という確定した事実を揺らぐことができれば、新しい未来が生まれる可能性がある』
不確定な賭けだ。
「二人とも助かる」保証はない。「二人とも死ぬ」かもしれない。
だが、ここで座して「世界の修正」を待つよりはマシだ。
それに、もし成功すれば、栞も助かるかもしれない。
10年間の孤独な死から、彼女を救い出せるかもしれない。
「分かった。やるよ」
僕はペンを握った。手汗で滑りそうになるのを、力強く握り直す。
宛先は、10年前の天野栞。交差点に立つ直前の彼女へ。
彼女のスケッチブックに、書き込むんだ。
『湊、忘れないで。どんな未来になっても、私はずっと貴方のこと――』
最期の言葉は、ノイズにかき消されて聞こえなかった。
プツン、と通話が切れた。
残されたのは、青白く光るメモと、ペンを持った僕だけ。
静寂が戻った部屋で、僕は深呼吸をした。
これが、最後の戦いだ。




