過去の私へ
僕は震える手で、光るメモ用紙に向かった。
書くべき言葉は決まっている。
けれど、それを書けば、今の僕の記憶はどうなる?
栞との思い出。絵里依と過ごした10年間。鏡との友情(たとえ歪んでいたとしても)。
すべてが書き換わってしまうかもしれない恐怖。
僕という存在が消えてしまうかもしれない恐怖。
もし失敗すれば、僕はただの記憶喪失の狂人になるかもしれない。あるいは、パラドックスの彼方へ消え去るかもしれない。
でも、迷っている時間はない。
スマホの時計は、明日が近づいていることを告げている。そして僕の心臓は、時折不規則なリズムを刻み、世界の修正力が迫っていることを知らせていた。
ドクン、ドクンと嫌な音が耳鳴りのように響く。
胸が苦しい。息が浅くなる。視界が明滅する。
死神の足音が聞こえるようだ。
「……くそっ!」
僕はペンを走らせた。
ボールペンの先が紙を削る音だけが、静寂な部屋に響く。
10年前の栞へ。
どうか、君の優しい「魔法」を使わないでくれ。
僕のために、君の最期の想いを使わないでくれ。
君が僕を助けようとすれば、未来で多くの人が不幸になる。そして結局、僕も死ぬんだ。
だから。自分のために生きてくれ。
『僕を助けようとしないで。自分のために逃げて』
書き終えた瞬間、メモ用紙が強烈な閃光を放った。
視界が真っ白に染まる。
部屋の景色が溶けていく。重力が消失し、感覚がバラバラになる。
まるで、深い水の底へと沈んでいくような、あるいは光のトンネルをものすごい速度で逆走しているような浮遊感。
内臓がひっくり返るような吐き気。
音も、光も、匂いも、すべてが混ざり合って渦を巻く。
意識が遠のく。
……気がつくと、喧騒の中にいた。
蒸し暑い空気。アスファルトの匂い。車の排気ガスの臭い。
僕は、見覚えのある交差点に立っていた。
視界が低い。地面が近い。
ランドセルが背中に重たい。革のベルトが肩に食い込む感覚。
半袖のシャツから伸びた腕は細く、日焼けしている。
小学生に戻っている。
10年前の、あの日だ。
「急げ、湊くん! 青だよ!」
隣で声がした。
振り向くと、そこには栞がいた。
あの頃のままの、あどけない笑顔。黄色い通学帽を被り、ワンピースの裾を揺らしている。
写真の中でしか見たことのなかった彼女が、動いている。笑っている。
彼女が僕の手を引いて走り出す。掌の温もりが、痛いほど生々しい。
生きている。彼女は確かに、ここに生きている。
信号は青の点滅を始めている。
その時、右折してきた大型トラックが、死角から突っ込んできた。
エンジン音が唸りを上げている。
ドライバーのよそ見運転。彼はスマホを見ている。
ブレーキ音も聞こえない。
迫り来る鉄の塊。死の予感。
スローモーションのような光景。
本来なら、ここで彼女が僕を突き飛ばし、身代わりになるはずだった。
「危ない!」と叫んで、僕を守るために命を投げ出すはずだった。
そして、最期の瞬間に「二人を見守る魔法」を願うはずだった。
だが。
彼女のポケットに入っていたスケッチブックが、微かに光った気がした。
未来からのメッセージが届いたのだ。
『僕を助けようとしないで』
その言葉を見たわけではないだろう。だが、意識の中に直接響いたのかもしれない。
彼女は一瞬、何かに気づいたように足を止めた。
迷い。躊躇。
「え?」という表情で、僕の方を見た。
その瞳に、未来からの警告が映ったかのように。
そのコンマ一秒の遅れが、運命を変えた。
彼女は僕を突き飛ばせなかった。
トラックのバンパーが目前に迫る。
このままだと二人とも轢かれる。
全滅だ。
身体が勝手に動いた。
大人の僕の意識が、子供の身体を突き動かしたのかもしれない。
僕は彼女の手を強く引き寄せ、道路の反対側――歩道の方へと思い切り跳んだ。
全力の跳躍。足の裏が地面を蹴る感触。
間に合え!
「危ないッ!」
轟音。
タイヤのスキール音。空気を引き裂くような摩擦音。
そして、鈍い衝撃。
視界が回転する。空と地面が逆さまになる。
アスファルトに叩きつけられる痛み。
足に激痛が走る。骨が軋む音がした。
だが、隣には温かい感触があった。
僕は地面に倒れ込んだまま、薄れゆく意識の中で横を見た。
栞が、無事な姿で僕を見下ろしていた。
泣きそうな顔。でも、生きている。傷一つない。
僕も、まだ痛覚がある。右足が折れているかもしれないが、生きている。
(……やったのか?)
トラックは数メートル先で停車していた。
周囲の人々の悲鳴が集まってくる。
「救急車!」「大丈夫か!」
安堵と共に、僕の意識は暗闇へと落ちていった。
深い、深い眠りの底へ。




