最後のリグレット
白い天井。消毒液の匂い。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。
病院のベッドで目を覚ました時、10年の月日が流れていた。
いや、正確には「交通事故で意識不明だった僕が、10年ぶりに目覚めた」わけではない。
僕の脳内には、22年分の記憶が整然と並んでいた。
ただし、それは「前の世界」の記憶とは少し違っていた。
記憶が混濁している。まるで二つの映画を同時に再生しているようだ。
片方は、栞が死んで、僕が一人で生きてきた記憶。暗く、後悔に満ちた灰色のフィルム。
もう片方は、あの事故で僕が右足を骨折し、半年入院したけれど、栞も無傷で助かった記憶。リハビリは辛かったが、隣にはいつも二人の笑顔があった、鮮やかなカラーフィルム。
「……ん」
重たい瞼を開ける。
眩しい日差しが目に刺さる。
「目が覚めた?」
カーテンが開けられ、覗き込んできたのは絵里依だった。
見慣れた大学の保健室の風景。
窓の外では、運動部の学生たちが掛け声を上げている。
「……絵里依? ここは?」
「大学の保健室だよ。湊、講義中に貧血で倒れたんだから。また夜更かししてゲームでもしてたんでしょ」
彼女は呆れたように笑っている。その笑顔には、あの「ストーカー事件」の影も、「鏡の裏切り」の影もない。
保健室。貧血。
心臓発作じゃなかった。世界に消されなかったんだ。
僕は自分の体を確かめる。右足の脛に、古い手術痕がある。ズボンの裾を捲ると、白く浮き上がった傷跡が見えた。
……そうだ。10年前の事故。僕は栞と一緒にトラックを避けたが、着地に失敗して足を複雑骨折したんだ。
一生残る古傷。雨の日には少し疼く傷。
でも、それは勲章だ。
その代償として、二人とも助かったのだから。
「……栞は?」
恐る恐る尋ねる。僕の声は震えていた。
もし、この世界でも彼女がいなかったら?
記憶の改竄だけだったら?
心臓が早鐘を打つ。
「栞なら、もうすぐお見舞いに来るって。なんか駅前の有名店でケーキ買ってくるって張り切ってたよ。『湊くんが倒れたなら糖分補給が必要だ!』とか言って」
絵里依は当たり前のように言った。
生きてる。
栞も、生きている世界だ。
僕は涙が溢れてくるのを止められなかった。目頭が熱くなり、視界が滲む。
嗚咽が漏れる。
「ちょ、ちょっと湊!? なんで泣いてんの!? そんなに痛いの? 足?」
絵里依が慌ててティッシュを渡してくる。
「違う……ただ、嬉しくて」
「はあ? 貧血で倒れて嬉しいとか、頭打った?」
彼女の軽口すら、愛おしい。
世界は再構築された。
僕が死ぬ運命も、栞が死ぬ運命も、修正されたのだ。
メモの力で。僕たちの選択で。過去への干渉で。
あるいは、あの悲しい未来は、僕が見た長い長い悪夢だったのかもしれない。
パラレルワールドの記憶。
どちらが夢で、どちらが現実か。そんなことはどうでもいい。
今、僕が息をしているこの世界こそが、真実なのだから。
ふと、ポケットを探る。
あの白い紙切れは、もうどこにもなかった。
スマホを見る。
あの不気味な着信履歴も消えている。アプリの履歴にも、通話記録にも、何も残っていない。
何もかもが、平穏な日常に上書きされている。
未来からのメッセージは、役目を終えて消滅したのだ。
その代わり、保健室のドアがガラリと開き、懐かしい声が響いた。
「湊くん! 大丈夫!?」
大人になった栞が、息を切らせて立っていた。
記憶の中の小学生姿ではない。22歳の、美しい女性になった栞だ。
ロングヘアを揺らし、少し大人びた服装をしているけれど、その笑顔は10年前と変わらない。
少し大きめの眼鏡の奥で、優しい瞳が揺れている。
その手には、スケッチブックではなく、ケーキの箱が握られている。
「……ああ。大丈夫だよ」
僕は心を落ち着けて答えた。
もう、後悔は必要ない。
過去を変えるためのメモなんて、もういらないんだ。
目の前に、守りたかった笑顔がある。それだけで十分だ。
「もう、心配したんだからね」
栞がベッドの脇に駆け寄ってくる。
甘いケーキの匂いがした。
「貧血なんて珍しい。ちゃんと食べてる? 最近、研究室忙しいんでしょ?」
「大丈夫だって。ちょっと考え事をしてただけさ」
「考え事?」
「ああ。……長い長い、旅の夢を見てたんだ」
僕は二人を見て、笑った。
この世界が本物で、あの世界が偽物だったのか。それとも逆なのか。
量子力学的には、どちらも存在したのかもしれない。
でも、僕が選んだのはこっちだ。
3人で生きる未来だ。
重要なのは、今、ここに3人が揃っているということだ。
窓の外から、蝉の声が聞こえる。
でも、それはもう脳を揺さぶるような不快な音ではなく、力強い生命の賛歌のように聞こえた。




