終話 董卓4
これまで挙げた盧植や袁紹にも増して、董卓の攻撃的な性格が向けられた相手が少帝とその母の何皇太后であった。成人男性が持つであろう、女性や子供に対する遠慮というものが、この男には無かった。少帝の場合、数えで十七才(満でいえば十五、六才)なので微妙ではあるが。何よりは、この二人の追い落としこそが、自らの権力掌握において不可欠なものと考えるゆえであろう。
そもそもの最初からして、きな臭い。少帝と陳留王が、小平津からの帰路、北芒山(洛陽と黄河の間にある)におると聞き、迎えに行く。果たして予感するところがあってか、少帝は董卓が兵卒を率いて至るのを見て、恐怖のあまり涙を流して泣いた。
それゆえ、三公たちは董卓に言う。「帝が怖がっておられる。兵を退けよ」
そこで董卓いわく、
「公たちは、国の大臣となるも、王室を匡正(正しく)することができずに、国家を播蕩(動かし壊す)させた。(そんなそなたたちの言に従い)何ぞ、兵を退ける必要があろうか」
そして、家兵を率いて、帝ともども洛陽城に入った。これにより、董卓は洛陽を軍事的に占拠したのである。廃立を議論する会議はこの後のことである。盧植(と袁紹?)を除いて他の者が押し黙るのも無理からぬ状況であった。
ついに何皇太后を脅して、(少)帝を廃する詔を出させる。その詔いわく、
「皇帝は(霊帝の)喪中であるにもかかわらず、人の子たるの心なく、威儀は人君(君主)に類せず(ふさわしくない)。今、廃して弘農王とする」
自分の息子をかように述べるはずもなく、これが脅迫によるものと良く分かる。
次に陳留王を皇帝(献帝)に立てる。この際、董卓は弘農王を抱えて玉座より降ろし、(献)帝に対し、北面して臣と称させる屈辱をわざわざ与えておる。(皇帝は南面してまつりごとを行うのが常なので、あえて『北面して』となる訳である)
また、董卓は、
「何皇太后は永楽太后(注1)を蹶迫して憂死させた。婦姑(嫁・しゅうとめ)の礼に逆らい、孝順(孝に順う)の節(操)が無い」(注2)
として(長楽宮から)永安宮に遷し、遂に弑逆す。(注3)
(注1 霊帝の実母ゆえ(皇)太后と尊称されるが、桓帝の皇后(正妻)ではなく、解犢亭侯の劉萇の妻。永楽とはこの者の住む宮殿名である。通常、皇太后の住居の名である長楽を用いないのは、その経歴ゆえであろう。
注2 永楽太后は(王美人の子の)劉協を皇帝に推したので、何皇太后と何進が協力して追い込んだ末に、病没している。
注3 永安宮に遷した時点で、皇太后を廃されたのであろう。どこに住もうが、その主が皇太后である限り、そこは長楽宮と呼ばれるはずだから)
本来なら、最高権力者たる皇太后と皇帝がそろいもそろって、これほど好き放題にやられるのかと想わざるを得ぬ。ここまで見て来ると、何皇太后と盧植や袁紹との間に協力の動きが無いことが分かる。これは、そもそも何皇太后が宦官側の人物であることが大きい。
ただ、やはり一番大きいのは、何進の不在であろう。生きておれば、皇太后と士人勢力を結びつけることは可能であったろう。また、大将軍として兵を率いるならば、所詮は一軍閥に過ぎぬ董卓が武力で脅すなどということができようはずもない。
こうしてみると、一方で外戚の横暴の原因となったと想われる、外戚に大将軍の座と共に軍事の大権を与えるというやり方は、他方で政権の安定に寄与していたことがよく分かる。
盧植も袁紹も曹操も去り、残るはまさに丁原のみとなっておった。董卓は、その調略のために適した人物を捜しておったが、まだこれだという人物を見つけられておらぬ。河東で出会った丁原配下の呂布という者は、うまくすれば口車に乗せられそうとの印象があったので捜させたのだが、どうやら丁原の陣にはおらぬようであった。




