第2話 董卓2(追記・修正あり)
董卓が洛陽に入ったときの家兵は、歩兵・騎兵を合わせて三千。そこで、四、五日ごとに夜にまぎれて外に出して、翌朝、旗や太鼓を列ねて洛陽に入らせた。そしてこれを西方の兵がまた加わったと喧伝した。洛陽でこのからくりに気付いた者はいなかった、とは後漢書が伝えるところである。
ところで、兵の数を多く見せかけることは、戦の常道である。そう。董卓にとっての洛陽入りから政権掌握に至る過程は戦に他ならなかった。というか、彼にとって世にあるあらゆることどもは戦であったのだろう。
これは武官ゆえとは必ずしも言い切れぬ。武官の中には曹操のように文武両道をこととする者もおる。
むしろ、彼の攻撃的な性格のゆえ。敵・味方を厳格に区分けし、敵とみなせば激しく攻撃し、徹底的に滅ぼすゆえと想える。また、かような偏狭な性格の持ち主も、武官であれば成功しやすいとは言えるであろうが。
しかし、まつりごとにおいてはどうか?。臣民を慮ってなすべきなのに、偏狭な性格ゆえの敵意を向けられたらどうなるか。たまったものではない。先話で董卓にまつりごとの才覚が無いとしたのは、史書が伝えるこの者がなしたことからの結論である。
そして、今話では上述により彼の性格からやはり同じ結論を得られそうである。
このあと(次話まで)、少し叙述に工夫を凝らしたい。時系列にことの顛末を述べるのではなく、各敵との争いに個別に着目して述べて行きたい。そうすることにより、見えて来ることもあろうから。
董卓にとっての敵は①漢・盧植、②何進亡きあとの士人勢力の中心たる袁紹、③そして本来なら漢朝における最高権力者であるはずの現皇帝の劉弁と、その母であり朝見(摂政)する何太后。
まずは盧植である。そこそもにおいて、盧植は董卓のことを良く想っておらず、それゆえ何進が董卓を呼ぼうとしたとき、董卓は凶悍(心が悪く荒々しい)ゆえに、制しがたく、必ず後の憂いとなりましょう、として止めようとした。しかし、何進は応じなかった。
そして何進は殺され、盧植の活躍もあり、(少)帝と陳留王が無事に洛陽に戻るを得たあとのこと。
董卓はまさに帝の廃立への同意を求めて、百官を招集した。その会議にて董卓が主張するところでは、
「現在の皇帝は暗愚で脆弱であり、ために、歴代皇帝の宗廟を奉じる天下の主にふさわしくない」とし、事例として古くは殷代の伊尹や前漢のときの霍光を挙げ、現皇帝を廃して、陳留王を立てるべきと。
三公であれ九卿であれ百官中にあえて答える者は無かった。董卓は更に声を張り上げて、
「(先に述べた)霍光のときに田延年が剣を手にして、あえて大義をはばむ者がおれば、いずれも軍法にて裁かんとした例を挙げて、こたびもまた同じとした」
要は何かものを言うなら斬り殺すぞと脅したのである。
そんな中、盧植のみが独り抗弁して、
「尚書(注1)を按ずれば(調べれば)分かることだが、(殷の)太甲は既に即位しておったが、明ならず。それゆえ、(宰相の)伊尹が太甲を桐宮に放逐したのである。
また、(前漢の)昌邑王(の劉賀)は即位してわずか二十七日にして、罪過は千條にもなる。それゆえ、(臣下の)霍光が廃立したのである。
今上帝は春秋に富み(注2)、徳を失っておらぬ」
それゆえに董卓が挙げた事例とは異なるとして、廃立に反対した。
董卓は激高して会議を中止した。そして怒りのままに盧植を誅殺せんとしたが。以前、盧植に助けてもらったことのある蔡邕という者は、董卓とも親しかったので誅殺すべきでないと訴えた。更に彭伯という者も、「盧尚書は海内の大儒にして、人の望である。今、害しては、天下は震え恐れましょう」として、軽挙を諫めた。
これにより董卓は表向きは盧植を罷免するにとどめたが。
そこで盧植は年齢と病ゆえに、故郷に帰ることを求めた。ただ、董卓による禍をまぬがれることは難しいと考え、道を欺いて轘轅道より出る。董卓は出奔を知り、あわてて刺客を送るが、あざむいた甲斐もあって、盧植は逃げおおせるを得た。(注 洛陽八関の一つに轘轅関がある。恐らくは、その関を通って逃げたのだろう)
(注1 まぎらわしいが、ここでの『尚書』は書名であり、『書経』の別名である。尭・舜・夏・殷・周三代の政道を記した書とされるので、伊尹の記事もあるのだろう(手元にないので未確認)。
ところで、この盧植さん。『尚書章句』(現存していないが、十中八九、注釈書であろう)を記したと伝えられるほど、この書に詳しい。それもあって、あえて『按ずれば』と言うのである。また、二十七日と憶えておるほど、霍光の事例にも詳しいと。
恐らくは董卓が誰かから入れ知恵されて述べたところの故事を、見事に否定してみせた――ここら辺はそらんじるほどに故事に通じておるゆえにできることであり、まさに盧植の面目躍如というところ。対して、董卓は百官の前で面目をつぶされたことになる。それもあって激怒したのだろう。
注2 春秋とは年齢の意味である。『春秋に富み』とはまだ幼い劉協(数えで9才)に対して、(少)帝は(数えで17才と)年上であり、ゆえにより皇帝にふさわしいと言いたいのであろう)




