第1話 董卓1
董卓。この男こそ、まさに漢朝にとっての孛星に他ならぬ。孛星とは帚星の異名であり、古代の漢地の天文学にては、日食に並ぶ凶兆である。「孛」の意味は、立心偏を付けて「悖」とした方が明瞭になる。「悖る」と読まれ、そむく、みだすを意味する。恐らく、このとき、この男による権力掌握がなされなければ、いずれ滅び行く運命ではあれ、漢朝の寿命もあと五十年、場合によっては百年は延びたのではないかとさえ想える。
一人に人間によってそうなるというのは、なかなかあり得ることではないが。まさに、この男はまがまがしき衰運を漢朝にもたらし、その滅亡の元凶となった。
そしてこの者が権力を握れたのには、一つには軍事的優位――その家兵の存在による――があったのであろうが。
もう一つには、この者独特の政治感覚――まさに豺狼の如くがあってであろう。
もちろん、歴史の常であるが、偉業であれ悪業であれ、国家的な何ごとかをなすには、幸運を必要とする。董卓の場合もしかり。そのあまりのタイミングの良さであった。まさにお膳立てしましたという如くの権力の空白。
霊帝が崩御し、そして、ときの朝廷の二大勢力の一方である宦官があらかた誅滅されておった。もう一方の士人勢力はといえば、その中心となるべき大将軍の何進もまた殺害されておれば、抵抗し得るはその残存のみ。
しかも、董卓が都・洛陽に至ったのは、自ら望んでこの機会を得ようと馳せ参じたゆえではない。漢朝の側からすれば『何の因果で』となろうし、董卓の側からすれば『棚からぼた餅』に他ならなかった。対立する宦官勢力を威圧するために、士人勢力の中核たる何進と袁紹が呼んだのである。
そして董卓は洛陽到着後、初手から権力掌握に動いた。なすべきは、皇帝の首のすげかえ。現皇帝の劉弁からその弟の劉協へと。
それをなし得れば、彼は定策の功――皇帝擁立の大功――をなした者として、漢朝にての並ぶ者なき重臣となり得ようと、そう考えたのである。とても単純ではあれ、また前述の幸運が無ければ至難と言ってさえ良いことではあれ、逆にいえば、なしえるならば、権力掌握のために極めて有効な道筋ではあった。
まず、董卓は(少)帝と陳留王を出迎えるにおいて、と行きたいところであるが、少しばかりこの男の起こりを語りたい。
父は潁川郡の輪氏県の県尉どまりであった。中央の高位の武官たる校尉や都尉までは至れなかった。
董卓自身は隴西郡の臨洮県の人と伝えられる。生まれたのは父が県尉を務めた地の潁川とされるから、隴西の方は戸籍を有するということであろう。ちなみに、後漢書の李賢の注に引く『卓別伝』によれば、それ故に、この者の字は仲穎とされ、弟の董旻の方は叔穎とされる。ただ、この後に注を付した劉攽という人は、それなら『穎』ではなく『潁』と作るはずと文句を言っている(注 禾の部分が水になっている)。要は違うんじゃねえのと。一般に字は元服のときに付けるものなので、作者である私も違うんじゃねえのと想う。まあ、幼いときの通称が生地にちなんだ『仲潁』と『叔潁』で、元服のときに、『仲穎』、『叔穎』と改めたというなら、ありかとは想うが。『潁』は川の名に過ぎないけれど、一応、穎には「優れる・抜きんでる」という意味があるしね。ちなみに仲は次男、叔は三男に用いられる。長男は若くして亡くなっている。
ところで、隴西といえば馬産の地である。
董卓は六郡――隴西郡もその一つ――である良家の子であるを以て、羽林郎となる。羽林郎は宿衛・近侍を職務とするので、要は近衛兵である。江戸幕府になぞらえていえば、董卓の家柄は旗本というところであろう。対して、袁家や曹家は大名クラスとなる。
ここから董卓はまさに実力で成り上がって行くのである。といって、連戦連勝という訳ではない。戦とは相手があるものであれば。なので、勝ったり負けたりしながらではある。
董卓の主戦場は洛陽の西方、漢朝の西部たる涼州――いわゆる河西であった。世界帝国とも称される唐朝ほど西方に拡大した訳ではないにしろ、漢朝もまた西域へと至れる河西の領域を有したのである。敦煌が最も有名であり、他に酒泉、張掖などがある。あくまでおおよそであるが、後代の西夏の領土と想えば、分かりやすい。
その地の強勢な遊牧勢たる羌族(チベット系異民族)と一方で戦って戦果を挙げ昇格し、他方でこれを自軍に取り込んで家兵とすることにより、強大化して行く。
ここで、若かりしときの袁家との交わりを紹介しておこう。袁紹の叔父の袁隗が司徒のとき、その掾(=属官)としている。袁隗が司徒になったのは、憙平元年[172]であるから、その頃のことである。
ちなみに、このずっと後の、袁紹が反董卓の盟主として山東で挙兵したときのこと。これを知った董卓は、このとき大傅(三公の一)であった袁隗を含めた都におった袁一族を誅殺しておる。まさに因果の業は計りがたし。
先に述べた中平元年[184]の黄巾の張角攻めでは中郎将にまでなっている。このときは攻め落とせなかったので、罪にあてられている。やはり、攻め落とせなかった盧植は死罪、後に「一等を減ず」となっているが、このときの董卓の罪科は不明。
ただ同年の辺章・韓遂討伐にて中郎将に返り咲いており、更には破虜将軍にまで昇る(注 虜は異民族に対する蔑称)。これがこの者が武官の最高位たる将軍職に初めて就いたときである。将軍職の中では下の方とはいえ、羽林郎(近衛兵)から昇り詰めたと想えば、董卓に雄略あり、武官としての才覚ありとみて問題あるまい。
対して、まつりごとをなす才覚にまったく恵まれなかったことは、しばしばあることではあれ、漢朝のぬぐいがたき衰運・臣民の耐えがたき悲惨に直結することになる。




