終話(おまけ) 河南尹及び洛陽八関
そもそもは第3話の注として書いていたが、物語の興を削ぐことになるかなと想い、別話としました。
1.河南尹:実質、河南郡に同じ。首都洛陽がある郡ゆえ、あえて尹と呼ぶ。しばしば史料に出て来るゆえ、(出世コースもしくは名誉職としての)きらびやかな官なのであろうが、実権としては大したものはないと想われる。軍事でいえば、首都洛陽周辺は大将軍何進が(都亭に駐屯して)掌握しておった。
『都亭』がそれなりの防御施設(城塞の如くの)なのか、そうしたもののないただの駐屯地(宿営地)なのか、はっきりしない。亭には『ものみ台・たかやぐら』の意味もあれば、『宿場・宿駅』の意味もある。
ちなみに、日本では『都』といえば『みやこ』のことであり、こちらの用法(他にも『都尉』『都護府』などがある)は入って来ておらぬため、首をひねることになりがちであるが。こちらの『都』は「より大きなもの」や「より上のもの」を意味する美称として用いられる。なので、都を大に変えても意味が通じる場合が多い。『大亭』『大尉』『大護符』とね。
一応、『都』には『統べる』との意味があったりする。なので『統』と入れ替えても行ける? 『統護符』は行けそうだね。
2.洛陽八関:この発想は、多少なりとも漢の成り立ちと深く関わる。そもそもは秦である。この王朝は最終的には中国全土を統一するのであるが、そこに至るまでは関中を拠点にした。読んで字の如く『関の中にある地』――関に囲まれ、固く守られた地である。その関はといえば、最も有名なのは東の函谷関、そして、南に武関、西に散関、北に蕭関となる。
前漢はこの地をそのまま受け継ぐ。秦の首都の咸陽と前漢の首都長安はほぼ同じ地と言って良い。王莽の新朝による中断を経て、光武帝による再興のとき(後漢の始まり)、長安が荒れ果てたということもあり、東方の洛陽に遷都した。ところで、この洛陽、関中の外――函谷関より更に東――にあるのである。なので、関により固く守られてとは最早言えないのであるが、秦、そして、前漢からの考え方を受け継ぎ、あえて洛陽八関と呼び習わす訳である。(厳密に言うと、秦は四関だけどね)
ただ、このときの主要な敵というのは、主に北に鮮卑などのモンゴル・トルコ系の遊牧勢、西に羌などのチベット系の遊牧勢となる。
そもそも北に対しては、始皇帝が長城を築いたことからも明らかな如く、実質的な防衛ラインははるかに北であり、洛陽遷都において、防衛力が弱体化したとは言えぬであろう。
西に対しては、遠ざかった分、そして、何より、敵は最も堅固な関である函谷関を突破しなければならない。ゆえに、防衛は強化されたと言い得よう。
ところで、史実においての董卓による政権掌握後のこと。河北や山東にて袁紹を盟主として義軍(見方によっては反乱軍)が挙兵する。それに対して、董卓は長安への遷都を強行する。史書はこれに対しての批判で満ちるが、防衛上の利点は今更、言うまでもあるまい。
ちなみに董卓さん、(東から)孫堅が至るに及び、勝てる自信があったのか、洛陽八関の一つである旋門関(虎牢関に同じ)ではなく、あえて、洛陽で迎え撃つが、やっぱり負けていたりする。




