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終話 袁紹は遠略す←ダジャレじぇねえか?

(サブタイトル 『袁紹さんっていくつなの問題』)


 三国志といえば、魏・呉・蜀の三つどもえが定番であるが。ことを中原(黄河流域)に限るならば、曹操・袁紹の二強となり、やがては両雄並び立たずの決戦となるのは良く知られておるところ。本作では曹操の起こりについてはそれなりに語って来た。ならば、袁紹についても、という訳である。


 字を本初といい、出身は汝南郡汝南県(河南省商水県の北西)。遠逢の庶子であるゆえ、伯父の遠成(実父・遠逢の兄)のあとを継いだ。


 (数えで)二十歳で濮陽県の長(=長官)となる。母が亡くなり、その喪に服すこと(数えで)三年。 [注 満で二年である。現代日本で三回忌(三周忌とも三年忌ともいう)を満二年でなすのと同じ]


 引き続き、さかのぼって父の喪に服す。併せて(数えで)六年、墓の側らの小屋で過ごしたという。


 父の喪については、袁紹が生まれてすぐ遠成が亡くなったため、当時、喪に服すことができなかったというのもあろうが。喪にかこつけて、朝廷への出仕を拒んだというのが、実情であろう。


 ここら辺から、サブタイトルに付した『袁紹さんっていくつなの問題』が絡んでくるのだが。


 そもそもの始まりは、霊帝の即位年である建寧元年[168年]の九月。中常侍の曹節(注1)が詔をいつわり、大傅[文官筆頭]の陳蕃・大将軍[武官筆頭]の竇武とうぶらが一族もろとも殺害されるという大事件が起きる。翌年[建寧二年:169年]の十月、中常侍の侯覧のそそのかしにより、長楽少府の李膺りようらが党人として弾劾され、獄に下される[第二次党固の禁]。

(注1 曹の苗字を持つが、曹操の親戚ではない)


 何顒かぎょうという男がおり、上述の陳番や李膺に親しかったゆえに、この者もまた宦官により陥れられる。そして、袁紹の出身地たる汝南に隠れるのだが、これをえにしとして袁尚と『奔走の友』と言い得る間柄となる。この交わりをなしたときが、袁紹が喪に服しておった時期と考えられるのである。


 霊帝の死去が中平六年[189]の四月、なので、雑に考えて袁紹は霊帝の死去のこのときおよそ四十才くらいとなる。想ったより年取っていたのね、袁紹さんという奴である。まあ、確かに三人の息子が武将として活躍しうる年齢になっておったことを考えると、ありえることではあるが、やはり多少なりともの驚きはある。


 この党固の禁により、危難に遭遇した者――困窮する者や逮捕の恐れのある者――は多かった。それを救うために、何顒は袁紹とともに救出計画を練り、また、洛陽に自ら入って動いた。これにより難を免れ得た者は多数。


 袁紹のこの動きは宦官に憎まれるもととなり、中常侍の趙忠により


「座して声価[=名声]をなし、好んで死士を養う。この兒(青二才)、果たして何をなしたいのか」


 とも揶揄されるが、裏を返せば、士大夫たちの信頼を得たことは、想像に難くない。結局のところ、それが、(反董卓を旗印として)袁紹が挙兵する際に盟主にまつりあげられることへとつながるのである。


 まさに、袁紹は遠略すである。ただ、さすがに漢朝の滅亡を予見してこうした行動を取っていたとは想えない――その心中に抱く義侠心なり正義感なりに従ってであろうし、あるいは宦官がのさばる朝廷に反発してであろう。なので、ダジャレは所詮ダジャレではある。


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