第5話 皇甫嵩と董卓(漢・盧植4)
(本話には盧植は出て来ませんが、話としては続きなので、このサブタイトルとなっています)
後漢書の皇甫嵩伝の広宗の黄巾軍との戦いを伝えるところによれば、
(張角の弟の)張梁の率いる軍勢は、強精で勇猛であり、攻め落とせず。兵糧攻めをなし、敵の戦意が衰えたところで、強攻している。
なぜ、敵の降伏まで待たず、強攻したのであろうか? 史料には書かれていないが、恐らく城中からの内応があったのではないか。そう言うは以下の事例ゆえである。
(注 後漢書が伝えるところでは、早朝に攻撃を始め、夕方には攻め落としている。盧植も董卓も攻め落とせなかった城をわずか一日で? これも、内応を疑わせることではある)
ときとしては、上記の黄巾攻めの約四年後の中平五(188)年のこと。涼州の賊の王国[まぎらわしいが、人名である]が陳倉(陝西省宝鶏市の東)を包囲した。この王国軍には韓 遂や馬騰の勢力も加わり、かなりの大軍であったと想われる。残念ながら史料はその総数を伝えないが。
朝廷は、皇甫嵩を左将軍、董卓を前将軍として、各々に二万人を授けて派遣した。後漢書は皇甫嵩をして董卓を監督させるためと記すが、前将軍と左将軍はほぼ同格。そもそもこの二人が反目しておることを朝廷が知らぬとも想えず、なぜ、この二人を組ませたのか、疑問は大きい。霊帝のちゃらんぽらんゆえというより、恐らく各々を推す者たちが朝廷におり、その折衷案として仕方なくであろう。典型的な失敗パターンではないかと想わなくもないが。
実際、戦場にても両者は反目し、攻め方で対立した。董卓は強攻を、皇甫嵩は様子見を主張した。
ここであらためて注意しておきたいのは、王国は包囲している側であって、籠城しておるのではない。なので、強攻といっても城攻めではなくあくまで野戦となる。どちらが有利・不利もない。ただ、陳倉から出撃するなら、内と外から挟撃でき、漢軍の有利となる。とはいえ、漢軍側の犠牲が皆無という訳ではない。皇甫嵩はそれさえも嫌ったということであろう。なので、上記広宗戦のところで疑問を呈したのである。
結果、冬から春へと移り変わり八十余日――恐らく糧食が尽きたのであろう。王国軍は包囲を解き、撤退する。そこを皇甫嵩は待ってましたとばかりに追撃し、これを討っている。確かに『野戦にて対峙する軍勢に勝つ』より『逃げる軍勢を追撃する』方がたやすい。とはいえ、何より、ここは、犠牲を嫌う皇甫嵩の考えゆえの軍略なのであろう。
ちなみに、董卓は追撃の危険を唱え、これに加わらなかった。ここは、軍略の違いゆえというより、反目の感情ゆえであろう。序盤に強攻を唱えた董卓なら、拒む理由はないと言って良い。ところで、董卓は罰されていない。これより、両者に明確な上下関係――従わねば罰するというほどの――は無かったと言い得る。




