第1話 漢(おとこ)・盧植1
(前書き 2週間、まったく投稿しないというのもあれなんで。とりあえず、計2話)後漢末の朝廷の乱れにおいて活躍する人たちの紹介、あるいは、これを前振りともいう)
まずは盧植。この人はわかりやすく文武両道であった。といって、現代風の勉強もできてスポーツ万能という訳ではない。古典に通じ、軍の指揮官として優れていたということである。
曹操の憧れの人であったと書けば、この人の当時の声望の高さが分かろうというもの。史実において健安十二年(207)、曹操は烏丸勢の下に逃げた袁尚・袁煕を討つために柳城を目指す。その途上で盧植の故郷たる涿郡・涿県を過ぎたとき、現地の郡の太守と県の令に、配下の者に墓参りに赴かせ、その御霊を祀り、子孫の面倒を見るよう命じている。この曹操の想いの結実でもあるのだろう、のちのことであるが、子の盧毓は魏の官に召されている。ちなみに、曹操も分かりやすく文武両道の人である。
曹操との共通点はそればかりではない。盧植はその死に際し、質素な土葬を命じておる。棺さえ用いず、ただひとえの帛(ここでは、恐らく白絹の意)をもってせよと。近年、曹操の墓が発見されたが、その副葬品はとても質素であったという。
この柳城であるが、唐代に安史の乱をなした安禄山の出身地でもあり、唐の対キタイの最前線基地でもあった。
この者、その体はまさに偉丈夫といいえるものであったらしい。身長が八尺二寸(約189cm)であることは後漢書が伝えるが、体重は不明である。ただ、後漢紀には『酒を一石飲んでも乱れず』とあるから、身長相応の肉付きか、あるいはおデブちゃんだったかもしれぬ。体が大きいほど、血液も多くなり、ゆえに飲んでも酒は薄まり、酔いにくいのだ。(ちなみに、一石は調べてみたが、諸説ありであった。普通の人が飲めば泥酔する分量とみて問題ないと想う。でなければ、あえて史書が書き伝えぬ)
文についていえば、若い時に高名な鄭玄と学友であった。長じては、五経の校訂などをしている。文についてはこれくらいでいいだろう。なぜなら、作者がまったく古典に通じていないからだ。
武についていえば、熹平四年(175)、九江にて蛮族(漢族とは言語・習俗を異にする南方の集団)が反乱を起こした。ために、この者が九江の太守として召され、見事に反乱は収まった。武力を用いたのか、説得が効を奏したのか、はたまた、反乱の原因をとりのぞいたのか、残念ながら、そこのところはまったく不明である。後漢書の原文には、『蛮寇は賓服す』とある。賓服は「来朝して服従する」の意味であるから、後漢書としては、盧植の徳により臣従したと言いたいのかもしれない。
ちなみに、このあと、病気になり、官を辞して、故郷の涿郡涿県に帰る。この地名を聞いてピンと来る人は多いかもしれない。そう。劉備の出身地である。まさに、その地縁で盧植に師事する。やはり盧植に師事した公孫瓚との友誼は、このときが始まりであろう。ちなみに、公孫瓚の地元は少し遠い。ただ、都・洛陽に留学することを想えばはるかに近く、ラッキーという感じであろうか。
『三国志』によれば、劉備の学費は同族の劉元起が工面したとあり、タダじゃないんだとの想いとともに、官につかない士大夫がどうやって生活費を稼いでいたのか、分かるところでもある。理想は晴耕雨読なんだろうが。漢朝、すでに銭を鋳造してるしね。現代並みの貨幣経済とまでは言わないけど、世知辛い世の中だったことは想像にかたくない。
そう、そして、なぜ、この盧植。漢なのか? 済世の志を抱くゆえである。済世って?と想われる方は、済の字で熟語を造ってみると良い(他の字も同じだよ)。そう。救済である。「世を救済する」の意味ですね。漢学お役立ち小ネタコーナーはこれくらいにして。
ところで、色物チームの漢といえば猩猩殿。この二人、当然、絡むのかな。いや、時間軸が。絡むんだろう。いや、絡むといろいろ支障が出そうで。
何はともあれ、次話にては盧植と霊帝の絡みを物語風に少しばかり描いてみよう。




