第2話(間話) 河東、河間、河西について
河東、河間、河西と聞いて、直感的にどこか分かる人は少ないであろう。ここでの河とは黄河のことであるが、黄河といえば、西から東へ流れる河。河北・河南は分かるが、河東・河西って何? 何をもって、そう呼ぶのか? そう。黄河には大きな屈曲部がある。一度、大きく北上し、陰山山脈に当たって東へと向きを変えてしばらく進み、次は南へと向きを変え、最後に再び東へと向かう。
この屈曲部は、現在ではオルドスと呼ばれることが多い。これはチンギスのオルド――この地で死去したチンギスを弔い祭るためのオルド(正式にはナイマン・チャガン・オルド、漢訳では八白宮)に由来する。一般的には、モンゴル語ではオルドで宮廷を指すが、ここでのニュアンスは漢訳の宮が理解の伝手となる。日本語で記せば『チンギスを祭る白い八(神)宮』とでもなろうか。話を戻そう。
その屈曲部を基準に東にある地を河東、西にある地を河西、その屈曲部を河間と呼ぶのである。それでは、なぜ、その屈曲部を基準になどするのか。
特に漢地の首都といえば、北京を想い浮かべる方は、そう疑問に想うかもしれない。この都は唐の時代の安史の乱の首領の史思明の燕京に端を発し、キタイの五京の一つ南京となり、これを滅ぼした金国は首都・中都とした。モンゴルに奪われて後、クビライの元に至って、首都・大都となる。その後、明・清から現在に至るまで首都・北京であり続けた。もちろん、この間、他の地が首都であったことがない訳ではないが。この北京を基準とすれば、屈曲部はずいぶん遠く、また、ずいぶん西にある。
ただ、秦朝では異なる。最終的には漢地を統一したとはいえ、そもそも西方を拠点とし、その首都は屈曲部の底辺の真ん中あたりにある咸陽である。
始皇帝のときにこの咸陽から陰山方面へ屈曲部の真ん中あたりを縦断する形で大街道を造り、また、陰山山脈沿いに万里の長城を造った。
共に対匈奴の軍事目的である。例えば、チンギスはホラズム遠征の前に子供たちにホラズムへ通じる道を造らせた。何のためかというと、人馬のためではなく、車(牛車や馬車)である。モンゴルの場合、これを兵站維持のため、といっては遠すぎるという気もするが、秦の場合は首肯していただけよう。
この屈曲部は秦にとって、そしてそれを引き継ぐ前漢(首都は咸陽にほど近い長安)にとっても中心に近い、しかも防衛上重要な地なのである。後漢に至って、首都を洛陽に移したため、多少は遠くなったとはいえ、あくまで多少である。
ちなみに、呂布の出身である五原郡九原県はこの陰山山脈沿いにあり、また、丁原が刺史を務めた幷州もこの当たりであったりする。そして、第3章の 第4話 『曹操もまたやらかし君だった件2(曹操4)』に出て来た河間王とは、この地にある郡を封土とする王族という訳である。当然ながら、本作とも縁深かりしという訳である。
おまけ 観光に行った多くの方が訪れる万里の長城は八達嶺のそれであり、北京のすぐ北にある。なぜかといえば、これは北京を首都とした明朝が、北元(北に戻ったモンゴル勢)あるいはオイラト勢の侵攻を防ぐために築いたものだからである。
始皇帝の築いたそれはずっと西という訳です。




