第4話 曹操もまたやらかし君だった件2(曹操4)
それで済南国なのだが、後漢書によれば、霊帝の熹平3[174]年の6月、河間王の劉利の子である劉康を済南王とし霊帝の父の祭祀を委ねると。
つまり、済南国とはたくさんある王国の一つではなく、霊帝の父の祭祀をなすとても重要な国――少なくとも霊帝にとっては――なのである。
更にいえば、この河間王の劉利が誰であるかというと、ほぼ間違いなく先帝の桓帝の兄弟か族子である。
これより前、河間王の地位にあったのは、桓帝の弟の劉建である。劉建自身はおよそ20年前に亡くなっているのだが、これを継げるのは劉建の兄弟か族子に限られる。これが劉利なのか、その間に別人がはさまるのかは分からないが、いずれにしろ、劉利が劉建の、ということは桓帝の兄弟、もしくは族子であるは疑い得ない。それで、今回、済南王に任命されたのがその子ということである。
[注:ここでの族子の範囲であるが、自分の子と兄弟の子[=オイ]まで含むのは明らか。それ以上、どこまで広げられるかははっきりしない。ただ、王国は子がないとしてしばしば廃止されている[その場合、行政上は郡に戻る]ので、そんなに広くないと想われる。
済南国自体も別系統の王族が代々王であったが、子がないとして廃止され、この喜平3年の劉康の任命により、再度、王国となった]
それで、この済南王の人事における霊帝の心情としては、先帝[桓帝]に近しい者を気遣って、新たに王の地位を与えたというものであろう。
桓帝も霊帝もともに河間王の別れとはいえ――(先述の劉建から更に古い時代に)河間王であった劉開は桓帝にとってはおじいさん、霊帝にとってはひいおじいさんとなる――通常、自らの親の祭祀となれば、子がなす。この場合、霊帝の兄弟がなす。[いなければ、親の兄弟[霊帝のオジ]がなす]
そこをあえてという訳である。
それで、そんな特別重要な王国に曹操を相として送ったのである。その寵は明らかである。問題を起こさず、そつなくこなしさえすれば、大きな功績として、更に引き上げるつもりであったことは、手に取るように分かる。更にいえば、桓帝に近しい王族の(曹操に対する)覚えが良くなれば、との期待さえあったろう。
ただ、曹操は派手にやらかすことになる。さすがに曹操とはいえ、霊帝の意に気付かないなどはないと想うが、かたくなに自らの信条に忠実にあらんとしたようである。そして、若いということもあってか――それ以上に経験が無いゆえであろう――それが通ると考えた。結果、賄賂などを理由として(帝に上奏し)済南国の役人の八割方をクビにした。
景帝のときに起こった呉楚七国の乱を境に王国の役人の任免権は国王から取り上げられ、皇帝の下にあった。とはいえ、先述の如くそもそも桓帝に近しい者を慮っての済南王の人事である。その役人の任免も、済南王の意を受けたものとなろうし、賄賂の一部も最終的には済南王のふところに入っておった可能性が高い。
史料は明記しないが、済南王から霊帝に強烈なクレームが入った可能性が高い。なんて奴を送るんだと。
それもあってか、曹操は呼び戻される。次に東郡の太守に任命されるが、済南国でよほどに懲りたのであろう。就任しなかった。
結論、曹操は「治世の能臣、乱世の姦雄」ではまったくないと。何をもって、というか、誰から見て能臣というかは色々あろうが、霊帝から見るなら、少なくとも済南国の相においては、その期待にまったく添うところはなかったといえよう。
そして、『乱世の姦雄』の方でいえば、自前の軍事力を確保しやすい太守職というのは引き受けておくべきであるが。このときの曹操、漢朝が滅ぶ(乱世が至る)などとは夢にも想っておらなかったのであろう。




